みずからのチームを立ち上げたエース 佐藤信哉【La PROTAGONISTA】
管洋介
- 2019年01月14日
一度はJエリートに降格したVCフクオカ。エリートツアーでは
圧倒的な力で活躍し、再びJプロツアーに返り咲いた彼らの活躍は記憶に新しい。
チームのエースであり代表として牽引する
佐藤信哉選手をプロタゴニスタはフォーカスした。
■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/ 1978 年4月16日生まれ 身長・体重/ 170㎝ 61㎏
座右の銘/ピンチのあとにはチャンスあり 趣味/サーフィン
VCフクオカ 佐藤信哉
HISTORY
2010 パラボラ・イワイ・シーガル
2011 VC フクオカ
2012-2013 マッサ・アンデックス
2014- 現在 VC フクオカ
ツール・ド・フクオカがすべてのはじまり
宇都宮ブリッツェンの引く強烈なトレイン、続くマトリックスパワータグ……。過ぎ去った瞬間に風が巻き起こるほどの猛スピードの隊列。1列棒状に疾走する展開に歯を食いしばりながら走る後続の選手たちは、ハンドルにしがみつき少しの風圧を避けて龍のようにうねりながら駆け抜けていく。
トップチームによる完全なレースの支配、組織化したチームワークで攻撃を仕掛けるレースシーンは、Jプロツアーを観戦した者が誰もが圧倒される光景だ。いっぽう、トップチームどうしがお見合いしたときに生まれる、一瞬のスキに果敢に飛び出す伏兵の選手たちの存在も、また魅力だったりする。「レースが動いた!」ファンたちはこのスリリングなシーンに震えるほど興奮する。「最低限のカタチを残しておかなければいけない使命感」
覚悟を決めたVCフクオカのエース佐藤信哉選手の走りはこの瞬間に光り輝く。勇気、情熱、厳しいトレーニングを越えてきたすべてをペダルに込めて逃げる走りは、人生すら感じさせてくれる。「強さ」。物事を成功させるには絶対に必要な力。
佐藤が31歳でロードレーサーに出合ってから歩んできた道のりは、この信念によって築き上げられてきた。「僕がJプロツアーを目指したい!と思ったのは2010年11月のツール・ド・フクオカ。第2の故郷福岡で初めて開催されたプロレース。国内プロチームと海外勢が並ぶスタートラインに地元はもうお祭り騒ぎ。ホンモノがそろったレースが作り出す圧倒的なスピード、ファンの大歓声をかき分けて走る感覚に痺れました」
この大会を機に初結成されたVCフクオカ。
北都留翼、一丸尚伍、日隈優輔ら、地元福岡の代表メンバーの一員として参戦したことをきっかけにのめり込んでいった。社会人として多忙な勤務をこなすなか、夜21時から始める3時間のロードワーク。24時を越えて食事をすることも少なくなかった。その後数年間大阪に転勤してからも週末は福岡のチーム練習へ通うほどの熱意で打ち込んだ。「東京から転勤で移住した福岡。自転車を始めたきっかけとなったこの地とその人柄に僕は惚れ込みました。会社の同僚も僕が勤務の後にトレーニングをしているのを理解してくれて、飲み会があってもウーロン茶しか飲まないのに、何も気にせず、また付き合いに誘ってくれる。そんな温かい彼らにいい報告ができれば……と気持ちは高ぶりました」
学生時代から無類のスポーツ好き。少年野球では選抜で中国遠征、高校サッカーでも都立の強豪に。社会人になってからもフットサルで東京都の2部リーグに所属するほど打ち込んできた。「僕のライフスタイルのなかで運動ができないというのが考えられないんです。フットサルで前十字靭帯断裂のケガを負い、リハビリでロードレーサーを購入したのがすべてのはじまりでした。ピュアに速くてカッコいい!
これまで巡り会ってきたスポーツとは違う感覚でいつしかフットサルへ復帰することも忘れてペダルを踏んでいました」
高速の展開の中、前橋クリテリウムでポジション争いに割って入る佐藤
ピンチを転機に成長した競技力
フルタイムワーカーでありながら運動神経のよさ、パズルのように時間を工面して続けたトレーニングは、競技歴2年でJプロツアーの登竜門となるJエリートツアー個人年間成績準優勝を成し遂げた。3年めには三船雅彦監督率いるマッサ・アンデックスでJプロツアーデビューを果たした。「減量と持久力、そして勝負するスピードを磨き上げていく自転車競技、上り詰めていくほどに身体は酷使されることを感じました。ほんの少しのミスで完走すら危ぶまれるほど厳しい世界。まさに洗礼を受けました」
とくに海外選手が大量流入し始めた2013年からは、Jプロツアーの高速化が進み、社会人レーサーにはスピードという大きな壁が立ちふさがった。「中切れができてリタイアに追い込まれているのは、そのポジションに落ち着いた自分の責任だろ」
本場欧州のレースで生き抜いてきた三船監督の言葉は、レースを生きる言葉として胸に刻まれた。「多少身体が疲れても、苦しくて筋肉が痛くても人間であることを実感できていいじゃないか!」
レースでの追い込み方に変化が生まれた。再び古巣のVCフクオカに戻った2014年度は試練の年となった。
チームの代表として、エースとして迎えた、開幕戦の宇都宮クリテリウムで12位に食い込み、順調なスタートを切るも、最終戦でチーム順位が残留規定に及ばず降格。多くのスポンサーを抱えながら翌年をエリートツアーでスタートすることとなった。「福岡を代表するプロスポーツVCフクオカにとって辛いできごとでした。しかし『もう一度Jプロツアーを目指そう』と支援者の方々の変わらぬ応援を受けて覚悟は決まりました」
2015年はタイムトライアルで優勝し、エリートツアーのリーダージャージにソデを通した。その後も守りに徹することなくスタートからアタックしていく姿、元Jプロチームとしての意地をみせた佐藤の活躍はファンの間でも話題となった。「Jプロツアーで活躍するにはこんなモノじゃ足りない!と自分の脚に言い聞かせながら戦いました。逃げて捕まってもまた勝負に絡む強さを手に入れたかった」
2015年度Jエリートツアー個人年間総合優勝を成し遂げた。「強くなければ何もついてこない。スポーツにとって強さは応援につながるんです。みずからを鍛え上げてチームメイトも走りで育てていく……」
Jエリート時代をともに戦った若きチームメイトの村田雄耶は群馬グリフィンへ、中田拓也(現シマノレーシング)はインタープロへと導かれた。
しかし、チームがJプロツアーの昇格権利を獲得すると、今度は連盟の体制が変わり、Jプロツアーチームの法人化という規定が壁となった。「沢山の支援者とここまで再び上り詰めてきた。僕には後戻りはできない」
会社に辞表を提出し、福岡を拠点に2016年、株式会社VCドリームスを立ち上げJプロツアーの参戦を表明した。「いつかはまたあのツール・ド・フクオカの熱狂をここへ取り戻したい」
覚悟を決めた佐藤選手の走りは大きく変わった。2017年は経済大臣旗杯で10位、最も厳しいコースとして知られる秋吉台カルストロードでは佐野淳哉などトップ選手らと厳しいコースのなかエスケープを成功させた。「まだまだ9年の競技人生、選手としてあと5〜6年は強くなれる!」
パラサイクリング選手のコーチ、自転車競技の啓蒙活動を行いながら現在競技生活を送る佐藤。「不安は耐えず隣り合わせにある。それも僕の人生、必ずチャンスが訪れると信じています」
筆者が取材に訪れたJプロツアー、前橋クリテリウム。トップチームのトレインに割って入り、ポジションを固める彼の走りに、歩んできた人生が写し込まれていた。
REPORTER
管洋介
アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める
AVENTURA Cycling
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