黒豹の異名をもつ、静岡の星 佐野淳哉【La PROTAGONISTA】
管洋介
- 2019年08月13日
INDEX
ここ10年、佐野淳哉ほど孤高の存在感を醸し続けるプロ選手はいない。
規格外の体格、ハイスピードでの抜群の巡航力と持久力を武器に
長年ロードレースにおけるキーマンとされてきた。
真っ黒に焼けた肌、切れ味のある鋭い眼光から「黒豹」と呼ばれている。
■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1982年1月9日 身長・体重/178cm・76kg
趣味/高田純次の本を読む 尊敬する人物/安原昌弘 血液型/B
マトリックスパワータグ 佐野淳哉
【HISTORY】
2005 ブリヂストンアンカー
2006 チームバン
2007 ニッポ メイタン
2008〜2012 ニッポ エンデカ
2014〜2015 那須ブラーゼン
2016〜 マトリックスパワータグ
突然導かれた自転車選手への道
佐野淳哉が選手を目指す転機は、埼玉大学サイクリング同好会の3年生のとき訪れた。東松山を拠点とするブリヂストンアンカーチーム(当時)の存在が彼に大きな影響を与えた。
「荒川サイクリングロードを走っていたときに、当時、アンカーの宮澤崇史さんや福島晋一さんと偶然行き先が重なることがあったんです。『行けるだけついていってみよう』と挑戦すると、2人から『速いね!レースに出てみなよ、監督の浅田顕さんを紹介するよ』と話を%げてくれたんです。高校時代は管弦楽部、浪人時代に運動しようと、ロードバイクを買っただけの自分に、突然プロの自転車選手という憧れの存在ができた。浅田監督から『日本で活動しているチームに入ってみなさい』といわれ、当時強豪アマチュアチームだったセレーノに相談しました」レースを走る気持ちは整った。ところがひとつ問題を抱えていた。「選手活動に必要な、想像以上のお金です。学生の自分には少ないレースでプロに導かれる結果を残すしかありませんでした」
すでに大学4年生。なにごとも思いたったら動いてしまう性格もあり、卒業後の進路をプロ選手と決め、練習に打ち込んだ。「当時ジャパンカップのオープンロードがプロへの登竜門でした。レースは10月、すでに最後のチャンス。勝つしかなかったんです」
前半から積極的に動き、途中でレースが振り出しに戻されたがあきらめなかった。佐野は人生を賭けて飛び出し勝利を飾った。
「一般的なプロセスからいえば急展開ですが、この優勝をもって浅田監督へアンカーへの入団を懇願しました」。
初めはアンカーのサテライトチームと契約したが、途中からアンカーのプロ選手としての活動へと進展し、2005年にプロロードレーサー佐野淳哉が誕生した。当時、アンカーは北京オリンピックに向け大きな転換期を迎えていた。翌年は浅田監督が率いるチームバンで、フランス中心に海外のプロレースを転戦した。「宮澤さんや福島さんと同じチームでの活動。プロレースを勉強した年でした」
2007年はメンバーを同じくしてチームバンからニッポメイタンへとスポンサーを変え、佐野はニッポ側の選手として大門宏監督の指導のもと2013年までレース活動を展開する様になった。とくにニッポは2011年からジロ・デ・イタリアの山岳で活躍したバリアーニをエースに活動を広げ、佐野も大きな影響を受けた。
「大門監督からは『プロとしてどうするべきか……、バリアーニのために動かなければならない、教えてくれることを待っていてはダメだ』と今でこその意味がわかる数々の助言をいただきました」
このころ、すでに国内では佐野のポテンシャルは脅威の存在となっていた。すべての選手が彼の動きに注目し、執拗にマークした。日本に残る少ないメンバーでもトップをもぎ取らねばならぬプレッシャーもあり、ニッポの黒いジャージをまとう彼の雰囲気はどこか孤独なエースにも見えていた。
窮地に立たされた選手人生からの逆転
2013年はイタリア人中心のメンバーの中で唯一の日本人となった。
プロ生活9年め、30代を迎えていた彼に、選手としての向上心と本人の心に大きな乖離が生まれていた。「プロ生活の厳しさ、禁欲的なガマンの日々、いつの日か精神的に鬱といえる波に飲まれていました。いままで5時間できていた練習が30分で脚が止まる。これまでどうやって走ってきたかもわからなくなり、内気な性格もあいまって、どこまでも自分が見えなくなっていました」
迎えた大分の全日本選手権ではローリングから号砲となる前にすでに自転車から降り、力を失い朦朧と空を見上げていた。
「佐野淳哉は終わった……。もう戻ってこない」。ライバルの誰もが彼が危機的な局面にいることを知っていた。
「自分自身もう選手人生が続くとは思っていませんでした。那須ブラーゼンの清水良行監督に声をかけられるまでは……」。元チームメイトである清水良行が栃木の地域密着型プロロードチーム「那須ブラーゼン」を監督として指揮していた。
「当時UCIのプロ登録ではなかった那須ブラーゼン。クラブチームから己の再起に賭けました」。佐藤喬著『エスケープ』の主人公として語り継がれている伝説の大逃げ、全日本選手権ロード優勝の半年前のできごとだった。
「前年の自分を見ているライバルたちからは完全なる伏兵であったはずです……」。直前の群馬大会でもリタイアに終わり、埋められない過去の走りとのギャップは新チームに入っても変わらなかった。迎えた全日本選手権ロード、号砲が鳴らされてほどなくしてできた11名の逃げに彼は乗った。4分の差を維持したまま200km近く逃げ続け、1分まで詰められながらもグループは井上和郎、山本元喜の3人に絞られた。ラスト3kmまで勝負はもつれ込んだ。「負けてきたことを誰かのせいにしたくない!自分を納得させるために力を出し切りたい」
ペダルに込めた渾身の力は二人を置き去りにゴールを駆け抜けていた。
「選手としてどん底をみた翌年の全日本選手権優勝。ニッポ時代とは全く違う環境に身を置いた自分、小さなプロチームのジレンマ、そして運営の大変さを間近に見ながら得た地元の支援の暖かな方々との関わり。多くのことがこの日の力となり新しいプロ人生を開眼する要因になりました」
表現者として世界観が広がったいま
2016年、マトリックスパワータグに入団。
再びトップチームの一員となってからは即戦力としてレースの駆け引きの要となり、その怪力で数多くの優勝もぎ取った。
「入団当時は34歳、すでにベテランの年齢。こんな自分のキャリアをフェードアウトというカタチではなく華を咲かせ続けてくれる安原監督の目は、常識を越えた世界観と人情味を持っていました」
今続けていることは過去があって価値や意味も見えてくる。マトリックスはプロレーサー、エンターテイナーとしての彼の魅力を引き立てた。
「安原監督の人間味に惚れました。厳しさの奥にある優しさ、カッコ付けるフリ、俺ってこうだからしょうがない……ということさえ、プロの振る舞いにしてしまう姿に影響され、僕は生き方を見いだしました」
プロ生活14年めを迎える佐野選手の日常はいまSNSで話題となっている。ときにシビアにレースに向き合い、ときにファニーに立ち振る舞う姿にファンは不思議と酔ってしまう。
「こんなガタイがデカいのに、内気で寂しがり屋。ふつうに見ればメンドクサイ奴なんでしょうけど、それを人としてプロ選手として楽しんでほしいんです。本当の自分が出せている今は、とてもいい状態にありますね」
表現者としてのプロ意識も目覚め、現在はファンから親しまれる存在へ。その独特の世界観と日本人屈指のポテンシャルは、Jプロツアーを今年も盛り上げる!
REPORTER
管洋介
アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める
AVENTURA Cycling
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