不屈の精神で駆け抜けた自転車人生 増田成幸(後編)【La PROTAGONISTA】
管洋介
- 2020年01月08日
国内のロードレース界を牽引し続けて来た増田成幸。
前号ではプロデビューまでの道のりを展開したが、
後半はトップレーサーに上り詰めていった人生にフォーカスした。
■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1983年10月23日 身長・体重/175cm・60kg
座右の銘/苦しいときは気持ちいいと思え
宇都宮ブリッツェン 増田成幸
【HISTORY】
2005 ベルエキップ
2006-2007 チームミヤタ
2008-2009 エキップアサダ
2010 チームNIPPO
2011-2012 宇都宮ブリッツェン
2013 キャノンデール・プロサイクリング
2014-現在 宇都宮ブリッツェン
人力飛行機からプロレーサーへ
人力飛行機のパイロットとして日本記録を目指した大学時代。最初で最後のフライトを終えて挑戦したロードレースで、彼の人生は大きく変わった。
「パイロット時代のトレーニングはロードバイクが主体でした。在学当時は船橋(千葉県)に住んでたので、地元のBMレーシングズノウやスペースの練習会にお世話になりました。そのころに知り合ったのが鈴木真理さん(当時チームブリヂストンアンカー)でした」
高校時代に一度はかじった自転車競技、出場できなかったインターハイ……。数えるほどのレース経験しか積んでいなかったが、自分に無限のエネルギーを与えてくれたペダルに人生を賭けてみたいと決意は固まっていた。
「過酷なトレーニングと節制を伴う鳥人間への挑戦。3年間ペダルに限界を見続けてきたことが、知らず知らずのうちにロードレースが戦う力を備わっていました」
2005年8月6日、人力飛行機で今も破られていない日本新記録(49.172km)を打ち出してからわずか2カ月後、プロへの登竜門となるジャパンカップオープンロードで村山規英(BSエスポワール)に次ぎ2位でゴールに飛び込んだ。そして、突然現れた新星はプロチーム チームミヤタの栗村修監督の目に留まった。
「栗村さんはおそらく、翌年ミヤタに入ることになっていた真理さんから僕が人力飛行機出身の選手であることを聞いていたと思います。お二人に運命を導いて頂きました」
2006年1月1日、チームミヤタの体制発表が行われ、鈴木真理や三船雅彦と並んだ増田成幸の名前とその経歴はファンの間で話題となった。
「一番驚いたのは僕の両親ですね。再び自転車レースを目指しているとも知らず帰郷し、ミヤタのジャージにスポンサーから受け取ったバイクを見せて、『僕はプロレーサーとして生きていきます』というわけですから……」
アシストに徹した5年間エースに上り詰めるも……
2年間所属したチームミヤタでは、鈴木真理の2度のJツアー総合優勝を間近に見た。
エキップアサダで2年間海外遠征を主体に活動、2010年に所属したチームニッポでは、宮澤崇史の全日本選手権優勝を、佐野淳哉との連携でアシストした。
「真理さんは『エースが勝ってこそアシストの仕事も陽の目をみる』ということを背中で教えてくれました。『この流れを作ればレースは勝てる』。チーム内で僕らアシストをコントロールするエースの立ち振る舞いを学びました。エキップアサダ時代からのチームメイトだった宮澤さんも、またスプリンターでした。彼がツール・ド・北海道で総合優勝したときは、第3ステージでリーダージャージを着る宮澤さんが、中間スプリントでタイムを稼いで差を広げていく作戦でした。エースが上りで消耗しないように、十勝峠では彼のボトルを持って走ったりと、『エースの近くにいてあげることがどれだけ大事か』ということを学びました」
エース格の選手として増田成幸が知られるようになったのは宇都宮ブリッツェン所属1年めの2011年。
Jプロツアー中盤戦の栂池高原と富士山ヒルクライムで2連勝し、終盤の個人タイムトライアルでも優勝。その走力をもってJプロツアーのリーダーであることを知らしめていた。
しかし、この年悲劇が彼を襲った。最終戦となる輪島大会ではシマノレーシング畑中勇介(現チーム右京)とリーダー争いとなったが、ダウンヒル中に落車骨折してしまったのだ。レース中に彼とともに足を止めたチームメイトに囲まれ、175点の僅差で年間総合優勝を争いながらも、鎖骨と肩甲骨骨折でリーダージャージを着たままタンカで運ばれる姿は、Jプロツアーの悲劇として有名な話だ。
「病室の天井を眺めながら、これから地道な復帰への戦いが再び始まると、複雑な心境でした」
じつはこの前年の秋(所属はチームニッポ)にも人力飛行機の世界記録挑戦で主翼が破断し墜落、腰椎圧迫骨折の重症を負っていた。復帰すら危ぶまれる重症で入院していた増田の携帯電話が鳴った。
「かつてチームミヤタに僕を入れてくれた栗村さんでした。当時、宇都宮ブリッツェンの監督だった彼から『早く気付きなさい!俺のところに来るしかないんだ』と励ましとも少し違う、栗林さん独特の言いまわしで宇都宮ブリッツェンへの誘いを受けました」
黒船来襲に立ち向かった7年間
2012年のギリシア経済破綻のあおりを受け、EU加盟国の経済は混乱、ツールやジロ、ワールドツアーを走ってきたダニアン・モニエ、ホセ・ビセンテ、オスカル・プジョル、ジョン・アベラストゥリなど名立たる選手たちがJプロツアーに参入した。
圧倒的な走力で日本のレース界を総なめにするなか、彼らに立ち向かったのが増田成幸だった。
「外国人主導に流れは変わり、レースが一段と高速化し難しくなりました。どうすれば彼らを打ち負かせるかと、勝負を挑みつづけた日本のチームは成長しましたね」
2016年の大分大会では、レースの最終展開で彼らを置き去りにし、独走優勝を遂げるまで増田成幸の走力は高まっていた。そして、このころからチームを超えてプロロードレース界全体へのビジョンをも培った。
「栗村さんの考え方でいまも大事にしていることがあるんです。『世のなかってできる人が2割、平凡な人が6割、できない人2割。その中で大切にしていることはできない2割の人に愛を持って接していくことなんだ』という言葉。僕自身が何度も一からやり直してきただけに、つまづいた選手たちに『レースが好きなんだという気持ちに純粋に向き合ってみてはどうか』と言えるようにもなりました」
近年、宇都宮ブリッツェンの連携は他の追随を許さぬものとなっている。
増田と同じく長いキャリアを持つ鈴木譲とで、ときにアシストに転じながら若手の勝利を導きメンバーを育て続けている。増田と鈴木というベテラン選手のリードでドラマチックにレースを展開し続ける宇都宮ブリッツェンは、プロリーグのメジャー化へ向け確実に歩み続けている。
REPORTER
管洋介
アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める
AVENTURA Cycling
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