帰ってきた若きエスペランサ 中田拓也【El PROTAGONISTA】
管洋介
- 2021年06月01日
2019年の開幕戦で周囲を驚かせた驚異の新人は、ある日突然消えた。
そして2年のブランクを経て、彼は再びプロレース界に戻って来た。
その選手、シマノレーシング中田拓也にプロタゴニスタは熱くフォーカスした。
シマノレーシング 中田拓也
2021年Jプロツアー開幕戦のスタートライン。居並ぶトップ選手のなかで、ひときわ集中力を高める選手がいた。彼の名は中田拓也。シマノレーシング所属4年めの選手だが、このところ彼の姿をレースで見ることはなかった。「あの日は先行で飛び出す覚悟でレースに臨みました。ようやくたどり着いたスタートライン。ここが僕の居場所なんだと……」
中田はレースが始まり1周を終えた直後にインを突いてアタックを決めた。この動きが10人のエスケープの決定打となり、レース中盤までリードを奪う。「プロトンから飛び出すときのペダルの感触に、プロ選手として走る喜びを感じました」
戦列復帰にかかった2年の歳月。記憶にある彼の活躍は2019年3月のJプロツアー開幕戦だ。フランシスコ・マンセボが強烈な攻撃でレースを圧倒したこの日、完走者6人という前代未聞のサバイバル戦で、中田は5位でゴールに飛び込んだ。しかし、そのときすでに彼の右ヒザが限界に近づいていることは誰も知らなかった。
どうしたら僕はシマノに入れますか?
中田がロードバイクに出合ったのは18歳。甲子園予選を集大成に野球を引退後、「弱虫ペダル」に影響されて地元のショップでロードバイクを購入した。「ある日ショップ主催のヒルクライム記録会に誘われました。野球出身の自分から見ると、参加する選手たちはすごく華奢でした。ところが、いざスタートするとあれよあれよと抜き去られ、負けず嫌いに火がつきました」
中田の育った北九州市小倉は、平日でも朝5時から熱心な市民レーサーが練習に集まり、雨の日でも屋内バンクが早朝開放される恵まれた環境。それが彼を成長させた。そして2015年の大分サイクルエンデューロで準優勝すると、練習仲間が彼を見る目が変わった。「でもこのとき、同級生の村田雄耶に負けたのが悔しくて……。VC福岡で実業団レースを走る彼を追いかけました」
燃え上がる情熱の一方、通っていた看護学校の忙しさがネックになっていた。VC福岡のトライアウトを受けて自転車一本に賭けてみたいと相談するも、母親は猛反対。それでも食い下がり、3年以内にプロになることを約束して活動が認められた。こうして一試合ごとのプロへのカウントダウンが始まった。
VC福岡で迎えた2016年3月の九州チャレンジロードU 23。ラスト500mからのスプリントを制して母の前で優勝をとげた。
名実ともに九州チャンピオンを奪取した中田の目は全国区へと向けられた。実業団レースではE1まで3戦で上り詰めようと意気込み、舞洲クリテリウムで号砲とともに飛び出し、ゴール寸前まで粘り優勝。3戦めの南紀白浜TTでも準優勝し、望みどおりE1へと駆け上がった。
E1では苦戦を強いられたが5月のクリテリウム2連戦で準優勝。その活躍をVC福岡の佐藤信哉監督に認められ、シーズン中にJプロツアーに推薦昇格。8月には知人の紹介でベルギーを拠点とする指導者、橋川健に直談判して渡欧、20戦の海外レースも経験した。「アタックを学んでほしい、レースはアタックをしてつかむもの」
橋川のその言葉に、レースに対する意識が大きく変わった。
2017年は日仏混成のコンチネンタルチームであるインタープロに移籍。国内外のステージレースを中心に活動した。国際レースでも完走できるほどの力をつけていた中田は、レースで偶然いっしょになった入部正太朗(当時シマノ)に思わず声をかけた。「どうしたら僕はシマノに入れますか?」
突拍子もない相談に驚く入部だったが、この一言が中田の運命を変えていくことに……。
6月からの欧州遠征では4日間で700km、10日間で12レースを走るロングツアーも完走し、身体つきも変わった。8月末に帰国すると、シマノで走りたい気持ちを伝えようと野寺秀徳監督に電話で直訴し、ツール・ド・北海道直前のシマノ合宿に参加した。
インタープロで参加したツール・ド・北海道には履歴書を持参。毎ステージが終わると成績を書き加えて野寺監督に手渡した。ここでシマノに入れなかったら引退すると決めていた中田。「本来なら全国での成績がないとウチには入れない。でも君の可能性を買おう!」と、野寺監督に念願のシマノレーシング入団を認められた。
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