アルカンシェルを着る世界最強の社会人レーサー、ダン・ビグハムが語る夢
中田尚志
- 2022年10月31日
仕事と競技の両立を目指し日々努力している選手も多いのではないだろうか? トラック世界選手権で金メダルを獲得したダン・ビグハム(英国)もその一人。彼のライフスタイルを見てみよう。
世界チャンピオンの本業は選手でありイネオスのエンジニア
ダンは自転車選手とエンジニアの二本柱で生活している。億単位の収入を手にする者もいるロードのワールド・ツアーと異なり、トラック競技で大金を稼ぐことは難しい。日本の競輪を除き、自転車一本で生計を立てるのは困難である。そのため副業や個人スポンサーを募り生計を立てている選手が多い。
メダルを量産し世界最強と言われるイギリスでもそれは同じ。ダンも例外ではなく複数の収入源を持つ。メインはイネオス・グレナディアーズのエンジニアとして、また自身が運営するワットショップ(オリジナル自転車部品の販売)の利益を収入源として選手活動を行っている。
エンジニアとしての専門はエアロダイナミクス。イネオスでは選手の空気抵抗を最適化する仕事をメインの業務としている。
DHポジションに革命を起こす
彼がエアロのエンジニアとして注目された一例はDHバーでの乗車姿勢改善。
DHポジションは、これまで前面投影面積を少なくする事が空気抵抗を減らすと信じられてきた。そのため選手はDHバーをできるだけ低くセットし、腕を狭くそろえる姿勢をとって来た。
しかし、彼はDHバーの先端を上げ、胸に抱え込むようなスタイルがエアロダイナミクスを改善すると考えた。
この方が腹部に巻き込む空気が減ることが分かったからだ。サメが口を開けるように空気を巻き込む以前のスタイルから飛行機の先端のような形に変えることで、前面投影面積は同じでも空気抵抗を減らすことに成功したわけだ。
彼の考案したポジションで、アシュトン・ランビー(米国)は4kmのタイムトライアルで世界初の3分台を記録。また機材エンジニアとして協力したデンマークチームは東京五輪で金メダルを獲得。
さらにフィリッポ・ガンナ(イネオス・イタリア)は世界最高のTT選手として世界選手権を制覇した。
他にも空気抵抗の少ないDHバー、チェーンリングの開発やトラック競技でクリンチャータイヤの採用など、彼が起こしたイノベーションは多い。
ここ数年でダンは自転車競技界最高のエンジニアとして世界に名を轟かせている。
アワーレコード世界記録を樹立するほどの実力者
エンジニアとしてエアロダイナミクスに革命を起こす一方で選手としても活躍している。9月にはアワーレコード世界記録を樹立。
そのとき、彼が出した記録55.548kmは2013年ツール・ド・フランス総合優勝者ブラドリー・ウィギンスの記録を1kmも上回るものだった。
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ハードスケジュールの中で世界制覇
多忙な社会人レーサーと世界レベルの競技者としての生活をどのように両立しているのだろうか? それは彼の処理能力の高さと仲間の協力によるものが大きい。
世界選手権期間中は当然レース一本に集中したいところ。しかし彼はレース期間中でもメール返信などその場でできる仕事は継続し、協力が必要な場合は弟のグラントとエンジニアであり妻の兄でもあるジェイミーが本国イギリスでバックアップする。
仕事と競技を両立する彼のここ最近のスケジュールは下記のとおりだ。
8月19日 自身のアワーレコードを達成。同時に次期挑戦者フィリッポ・ガンナの記録挑戦のデータ取り。
10月09日 フィリッポ・ガンナがアワーレコード挑戦。記録挑戦の日は帯同せず、元女子アワーレコード保持者のジョシュ・ローデンと結婚式を挙げる。
10月12日 自身が世界選手権に参加。英国代表としてチーム・パシュートで世界制覇
10月14日 個人パーシュート予選出走、4位で順位決定戦へ。
同日 個人パーシュート順位決定戦出走、その数時間後にパリの東側に移動しハネムーンへ。
じつは筆者も彼に頼み事があった。集中力を阻害するのではと非常に申し訳ない気持ちになり、その事を伝えた。「大丈夫。世界選手権はいつもストレスフル。ひとつぐらい用事が増えても同じだよ!」と答えてくれた。
東京五輪前から彼とやりとりしているが、今まで一度たりとも不機嫌なところを見たことがない。
チームパーシュートの表彰台。優勝したイギリスの脇をかためるのは、デンマークチームとガンナ率いるイタリア・チームだった。アドバイザー業務を手掛ける両チームと共にアルカンシェルに袖を通した。
表彰台に乗った全てのチームはワットショップの製品を使用。それは彼が最高の選手であり、世界最高のエンジニアであることを証明した瞬間だった。
「2年前のベルリン世界選手権では、僕はエンジニアとして大会を視察に来た一人だった。それが今はここで選手としてアルカンシェルを着ている。アンビリーバブルだ」
彼が持つ夢
エンジニアとして確固たる地位を獲得した彼だが、彼のメインのプライオリティはいまだ自転車選手だ。
「チーム・パーシュートでパリ五輪に出られたら素晴らしいね」
世界最強の社会人レーサーの挑戦は続く。
中田尚志 ピークス・コーチンググループ・ジャパン
ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。
https://peakscoachinggroup.jp/
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