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日本人初のジロへ市川雅敏を選んだ理由|日本代表コーチ・ギジガー特別インタビュー

自転車トラック競技日本ナショナルチームの中距離ヘッドコーチに就任したダニエル・ギジガー氏のスペシャルインタビューを全3回にわたってお届け。
1回目となる今回は1990年に日本人で初めてジロ・デ・イタリアに出場した市川雅敏氏との対談。日本で再会した2人に、当時の心境や裏話をうかがった。

フランク・トーヨー・チームでの選手&監督時代の心境とは?

日本人で初めてジロ・デ・イタリアに出場した市川雅敏氏。彼が所属したフランク・トーヨー・チームで監督を務めていたのはギジガー氏だった。

再会を果たしたダニエル・ギジガー氏と市川雅敏氏

市川雅敏氏の最初の印象は?

ギジガー:極東の国から来た若者だった。当時、日本には2千人もの競輪プロがいることは知っていた。その国からマサ(市川雅敏)は欧州のロードに挑戦し、プロレベルに達した唯一の選手だった。彼はそこに至るまでレースだけでなく文化の違いに適応する必要があった。
今(日本に住む)私はより深く理解できる。彼がどれほどの文化の違いに適応する必要があったのかを。
彼はライダーとしてのレベルが高かっただけでなく、チームに溶け込むことができた。彼をチームに呼び込み、一緒に働くことは私にとって喜びだった。

1990年ジロのチームプレゼンテーション(写真提供:市川雅敏)

1990年、ジロはチームにとって最も大きな目標でしたか?
また市川氏のトレーニング・プログラムをどのように作成されましたか?

ギジガー:マサだけでなくチーム全体のレースプログラム(※1)・トレーニングプログラムを作成した。
これらを作成する際、一番最初に行うべきはゴールの設定だ。自身が到達するべきゴールを明確にし、そこへ向かうステップを設定する必要がある。スタート地点がどこではなくゴールをどこに置くか?それが重要だ。

1990年にギジガー氏が市川氏のために作成したプランの一部(写真提供:市川雅敏)

30年前のジロは距離が長く休養日が無かった。これは大きなエンデュランスのベースが必要なことを意味している。もし短く速いトレーニング/レースで脚を作ったら、ジロの前半は飛ぶように走れるだろう。しかし、後半失速することは目に見えている。そのため、冬の間から大きなエアロビックベースを構築して行った。

ジロに向けては小さなチームで最高のレベルに到達する。それが我々の目標だった。

レースで総合10位以内を狙う。もし総合10位以内に入れないなら、ステージ勝利を狙う。逃げに送り込み、我々がレースを作るファイティングスピリットを持つチームであることを表明する。それらがゴールだった。

※1 レース・プログラム 選手がどのレースに出場するかを事前に決めておくこと。目標とするレースに向けて選手のコンディションが上がるように監督はメンバーを選出する

再会後、2人の話が尽きることは無かった

市川:我々はバランスの取れたチームでした。シュツット、ホネガーなど6日間レースを走れるスピードマンが常に少人数の逃げに乗ってくれました。そのため、私を含む他のメンバーは集団内で脚を休めることができました。
他にもダニエル・シュタイガーが新人賞ジャージを10日ほどキープしました。

市川さん自身にとってのジロのゴールは?

市川:シュタイガーのアシストです。彼が新人賞ジャージをキープすること。山で何かを必要とすれば助けることでした。個人的にはそれほど大きなプレッシャーを感じることはありませんでした。レースを楽しむことができました。

シュタイガーにとってあの年のジロは初めてのグランツールでした。10日間新人賞ジャージをキープした後にリタイアしたのは良い選択だったと思います。若い彼にとって苦しみ過ぎる必要は無かったからです。走り続けようと思えば走れたでしょう。しかし選手の将来を考えた判断でした。

ギジガー:彼は才能のある選手でとても若かった。そして非常に高いモチベーションでジロに入った。しかし、あるポイントから心身ともに疲労の色が濃くなり始めた。こういったときこそ我々の経験を生かすときだ。集団の前方にい続けることは体力だけでなく精神的にも消耗する。選手にレース棄権の判断を下すのは重要な判断だ。3週間のグランツールは極端な疲労を選手に強いるものだから。

彼がジロを去った後、我々のチームにとっては、別のジロが始まった。
新人賞をキープするプレッシャーからは開放された。マサにとっては得意とする地形のステージをピックアップし、1−2ステージ狙うことになった。

日本人初のグランツールでスタート・サインを行う(写真提供:一志治夫)

ジロ直前のツール・ド・ロマンディで市川氏をメンバーに選出されました。
どういった考えでチームを作り上げましたか?

ギジガー:マサはロマンディで良い走りを見せた。山岳でシュタイガーをアシストできるチーム随一の能力を持っていた。我々にとってマサがジロを走ることは大きな戦力だと考えた。

そして私はこうも考えた。彼は異国の文化に適応し、自己の能力を限界まで引き上げる知性を持っている。それも彼を選抜した理由だ。遠く日本から来てこのレベルに到達するまで彼がどれほどの自己犠牲を払ったのだろうと想像した。

あの年のジロを語るとき、ロベルト・タールマン(チーム・マネージャー)の存在が欠かせない。
彼はチームを創設し、私は現役最後の年を選手としても彼のもとで走った。資金豊富とは言えないチームだったが、我々は高いファイティングスピリットを持つチームだった。

先駆者市川雅敏氏のジロ出場を伝える地元紙(提供:市川雅敏)

市川:ジロに選ばれたとき、大きな喜びを感じました。
ベルギー・ヒタチに所属していたとき、リザーブとしてツール・ド・フランスのスタート地点に赴いたことが3度もありました。しかし、チームの最終決定は山岳のアシストである私ではなく、平地のスピードマンを出場させることでした。ヒタチには大柄で平地が速い選手が多いためチーム・タイムトライアルで好成績が見込めたからです。
フランク・トーヨーにとってジロはチーム最大のレース。そこに到達できた喜びはひとしおでした。

30年以上もの年月が経過したがお2人とも昨日のことのように当時の模様を話してくださった。
続く第2回ではギジガー氏自身のキャリアについてお伺いした模様をお届けする。

プロフィール紹介

ダニエル・ギジガー

自転車トラック競技日本ナショナルチーム中距離ヘッドコーチ。UCIワールド・サイクリングセンターのコーチ、スイス・ナショナルチームのコーチを歴任。スイス・チームをチーム・パシュートで東京五輪に導いた。現役時代はタイムトライアルを得意にし、ジロ・デ・イタリア、ツール・ド・スイスで区間優勝の経験がある。

 

市川雅敏

1987年に日本人初の欧州プロ(現ワールド・ツアー)として、ベルギー・ヒタチでデビュー。1990年ダニエル・ギジガー率いる、フランク・トーヨーからジロ・デ・イタリアに出場。総合50位でミラノに凱旋。完走を果たした。

取材&執筆:中田尚志(ピークス・コーチンググループ・ジャパン)

ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。帰国後、選手を8年間で10回全日本チャンピオンに導いた。
https://peakscoachinggroup.jp/

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PROFILE

中田尚志

中田尚志

ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。

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