ゴルフマーケティングの達人に学ぶ!自己流で築いたキャリアと心で動く力
EVEN 編集部
- 2025年01月03日
ゴルファーのために活躍するゴルフ界の匠から、それぞれの仕事に賭けた誇り高き言葉を頂く連載企画。今回は、〝自己流〞を貫くゴルフのマーケティング部長が登場。
仁木貴子 株式会社ヤマニ ゴルフ事業部 マーケティング部 部長
マーケティングという業務は、おそらく会社によって差異が生じると思う。仁木貴子によると、彼女の仕事は製品の製造とデザインおよび営業販売を除く、自社が扱うブランドの宣伝告知活動のすべて。あるいは「自分たちが利益を出せない立場である以上、営業の稼ぎを一切無駄にしないこと」らしい。
それを信条の一つにして、仁木は株式会社ヤマニのゴルフ事業部マーケティング部の部長となった。そこで、どのような経緯で今日のポジションにたどり着いたかをたずねてみた。
ところが、想定外の質問だったのか、不意のシャンクに唖然とするような表情を浮かべた。
「私、どうやってここまで来たんだろう?」
そんなわけで今回は、彼女ならではのゴルフのマーケティングを確立させた道筋を、仁木自身が探り当てるインタビューとなった。
そもそも会社勤めの当初から、現職の気配がなかった。短大卒業後に入社したのは商社。しかも配属されたのは総務だったという。
私は心で動くんだと思います。
「幼いころから運動が好きだったので、幼稚園ではオリンピック選手になりたいと思ったんです。次いで憧れたのが、体育教官室で生徒の悩みを聞く体育の先生。その夢を叶えるなら4年制大学へ。それが無理なら、いつか玉の輿に乗るために良い大学へ。結果、短大に進みました。某商社を志望したのは、そこが映画の『私をスキーに連れてって』で主人公が務めていた会社のモデルだったから。本当にそうなんです」
そんな逸話を躊躇なく語れるのが彼女の性格のようだ。しかし、玉の輿等々を期待した商社は、人間関係で傷つき2年で退社。ヤマニで営業事務を探しているという知人の報せが転職のきっかけとなった。これは2000年になる少し前の話だ。
さて、ヤマニ。1941年にベルトの製造販売から始まったこの老舗は、プライベートブランドとブランドライセンス、OEMを通じ、鞄やハンドバッグ、財布などを提供し続けている。ゴルフと本格的な関わりを持つようになったのは、1986年にゴルフバッグ事業を始めた時だった。それから十数年後に入社した仁木は、ここでゴルフと出会う。
「オジサンっぽいから、一生縁がないものと思っていたんです。ところが入社後すぐの台湾の社員旅行で、いきなりコースデビュー。その楽しさがゴルフにハマるきっかけになりました」
座右の銘は「人生、均せばフラット」
振り返れば、それが彼女の分岐点だったのだろう。営業担当とペアで動く営業事務をこなしていくうち、多忙な相方をサポートする形で、ヤマニが請け負っていたゴルフアパレルブランドのOEM担当に。やがて彼女の業務は貿易まで広がっていった。
「今思い出したんですけれど、ヤマニの初ボーナスは英会話学校に注ぎ込みましたね。昼休憩を使って半年学んで、喋れるふりで海外に行かせてくれって頼みました」
この努力が功を奏したのか、2009年に立ち上がったプライベートブランド「ラブ バイ ザ グリーン」。ゴルフにファッション雑貨を取り入れるため、米国での買い付けにも奔走した。
「私が日本に持ち込んだと自負できるのは氷嚢です。ニューヨークギフトショーのベビーコーナーで可愛いものを見つけました。ところが契約交渉の最中にメーカーが倒産しちゃったんです。製造元をたどったら中国の医療器具メーカーがつくっていることがわかり、直談判しに行きました。そういう自由な動きを許してくれる会社なんです」
人脈作りが目的で参加したコンペはなかった
2000年代に入った最初の10年は、仁木の意欲を昂らせる風が吹いた。ゴルフカルチャーの変容、とくにゴルフとオシャレを楽しむ女性層の拡大だ。これは、気付けばマーケティング一本で走っていた仁木にとって見過ごせない追い風だった。
先のラブ・バイ・ザ・グリーンが始まると、仁木は方々のコンペに参加し、自社ブランドの製品を提供する代わりとして、参加者の前で商品説明する時間を求めた。また、当時は出版社が多い神保町にオフィスがあったのを幸いに、何かあれば各編集部に出向き、「困った時のヤマニ」を印象付けた。
さらにこのころの仁木は、新たな策に出る。だが、この件に関しては少し恥ずかしそうに話した。「私たちの活動をより多くの人に知ってもらうためには、私にあだ名があったほうが良いという話になって、それで仁木貴子なのでニキータと……。まぁ、あだ名も、あちこち走り回るのも、潤沢な広告宣伝費がなかったからなんですけれど」
現在60名弱のゴルフ事業部が3分の1の所帯だった2011年。ヤマニは英国発のブランド「アドミラル」でゴルフアパレル業界に進出。それを皮切りに『トミーヒルフィガー ゴルフ』など複数のブランドでもアパレルを展開していった。
「アパレルをやるとは思いませんでした。鞄にはないサイズ展開があるし、季節ごとで商品も変わるし、これは凄いことになるなあと」
そう臆した仕事を、営業事務から叩き上げの仁木は着実にこなしていった。ゴルフカルチャーの変容を好機に。もちろん相応の結果を出しながら。
そう括ってしまえば、すべてが順風満帆に進んだように聞こえるかもしれない。しかし、ふと座右の銘をたずねて、必ずしも彼女の人生が右肩上がりの連続ではなかったことが想像できた。「人生、均せばフラット。これ、マンガの『白鳥麗子でございます!』からいただきました」
この言葉を今でも片時も忘れないのは、彼女にも自ら均して踏み越えていくほどの苦難があったからに他ならない。
「20代は、強直性脊椎炎という自己免疫疾患の難病に悩まされました。首から背中、骨盤まで強張って、毎朝ベッドから転げ落ちないと起きられなかったんです。投薬治療はなく、運動療法しかないとなって、ホットヨガを始めたら徐々によくなりました。そうしてジュガに出会ったんです」
仁木によれば、ジュガはハワイ発のセルフ整体で、リハビリや寝たきり症状にも効果があるという。ジュガによって心身を整えた彼女は、今ではインストラクターを養成する資格までもち、パーソナルトレーニングも行っているそうだ。
そんな仁木の試みは、後進の働き方にも芳しい影響を及ぼすかもしれない。たぶん、そんな具合なのだろう。どうやってここまで来たかわからず、強いて言えば我流で邁進してきた仁木ならではの波及効果というものは。
「今、わかりました!」
突然切り出した彼女の瞳が輝いていた。「私は心で動くんだと思います。営業事務の頃から人と会うのが楽しかったし、様々な人と向き合う中で、心が了解できればどんなことも苦にならなかった。そんな自分を育んでくれたのがゴルフなんですよね。思い返せば、ブランドを知ってほしくてコンペに参加しても、人脈作りが目的だったことはありませんでした。楽しく回れば、自然と人がつながっていきますからね、ゴルフは」
終始、明朗快活。つまり、あっけらかん。ゴルフ業界でも有名な彼女に触れ、マーケティング業務は人の術だと思った。
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スタイリッシュでアスリートなゴルファーのためにつくられたマガジン。最旬のゴルフファッション、ギア、レッスン、海外ゴルフトリップまで、独自目線でゴルフの魅力をお届け。
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