しまなみ海道をSUPで旅する|ホーボージュンの全天候型放浪記
フィールドライフ 編集部
- 2021年08月15日
INDEX
大小あわせて720もの島が点在する瀬戸内海。穏やかな気候と美しい光景で知られるが、潮流が速く、世界に名だたる海の難所でもある。僕はかつてシーカヤックでこの海を横断した戦友を誘い初夏のしまなみ海道をめぐる旅に出た。
文◎ホーボージュン Text by HOBOJUN
写真◎山田真人 Photo by Makoto Yamada
協力◎スターボードジャパン TEL.072-247-7841 https://starboard-japan.com
出典◎フィールドライフ 2020年夏号 No.68
横断隊と尾道のダイスケ
しまなみ海道をSUPで旅しようと思ったのにはふたつの理由がある。ひとつは始点となる広島の尾道に仲の良い友人がいたことだ。名前は森大介。年は15歳も下だけど、なぜか僕らは気が合った。
「おおダイスケ! ばりひさしぶりじゃが、どがいしょーるんの?」
「ジュンさん、やめてください、その気持ち悪い広島弁」
「じゃけえ、ワシゃあ男じゃけん、もうあとには引けんのじゃ」
「だ、か、ら……」
ダイスケとは2015年の「第13次瀬戸内カヤック横断隊」で知り合った。これは瀬戸内のプロガイドを中心に毎年行なわれるシーカヤックの遠征航海で、香川県の小豆島から山口県の祝島まで、およそ300㎞を7日間で横断する過激なもの。毎日夜明けから40㎞以上を漕ぎ続け、夜は無人島や無人浜に上陸して野営する。
瀬戸内海というと穏やかなイメージを持つ人が多いが、横断を行なう11月は冬型の気圧配置が決まり、風が吹くと海が猛烈に荒れる。また潮流の影響で川のように流れる瀬戸が次々と現れ、高度なナビゲーション能力が必要になる。まさに冒険的な航海なのだ。
この旅で僕はコテンパンにやっつけられ、自分のレベルの低さを思い知った。いくら人より速く漕げても、それは “海を旅する力” があることにはならない。ほかの隊士たち(横断隊ではメンバーのことを隊士と呼んだ)はみな風と潮を読んで自在に旅する力を持っていて、僕はただただ恐れ入るしかなかった。僕は翌年の第14次隊にも参加し研鑽(けんさん)に励んだ。ダイスケはこの当時の戦友だ。
「去年は参加できずにごめんな。楠君の弔い航海だったのにな」
「いやいや、こうして瀬戸内に来てくれて楠君もきっと喜んでますよ。俺もまたジュンさんと旅できるなんて思ってもなかったですからね。しかもSUPで!」
柔和な顔でダイスケが笑う。こいつこんなに穏やかで優しい顔してたっけか……?
横断隊では僕は彼のことを “殺し屋” と呼んでいた。鋭い眼光が印象的だったからだ。普段はニコニコしているけど、もしケンカになったらめちゃくちゃ強そうだ。
ダイスケは(僕のように)よけいな無駄口を叩かず、黙々と隊のために動くタイプだった。先輩の顔を立て、後輩の面倒をよく見る。絵に描いたような港町の男だ。尾道で生まれ育ち、小さいころから釣りと素潜り、そしてバイクが大好きだった。
18歳になるとダイスケは陸上自衛隊に入隊し、心身を徹底的に鍛え直された。そして除隊後は地元で造船関係の仕事につく。彼は当時のことをあまり話したがらないが、相当タフな毎日だったらしい。そんなときに出会ったのが四万十川とカヤックだった。
「精神的に追い込まれてボロボロになっていた僕を心配して、先輩がキャンプツーリングに連れて行ってくれたんです」
わずか2日間の川下りだったが、ダイスケはそのときの感動が忘れられず、その後も四万十川へ通うようになる。やがて自分のカヤックを手に入れ、荒海を漕いで腕を磨いた。そして13年に第11次横断隊に初参加。「もし瀬戸内海を完漕することができたら、地元の尾道でガイドになろうと決めていた」そうだ。そして横断に成功し、こうしてプロガイドになった。
そんな経緯があり、僕は彼とまた旅したいと思ったのだ。
潮汐を使ったワープ航法
航海初日は潮に恵まれた。この日は「中潮」で大潮に向かってどんどん潮汐の干満が大きくなる時期だった。
ご存知のように瀬戸内海は潮の流れが速く、瀬戸と呼ばれる狭い海峡では最大5~10ノット(時速9~18㎞)もの速さになる。SUPでは遡ることはもちろん、横切ることも困難だ。しかし逆にいうとこれに上手く乗ることができれば長距離を一気に移動できる。
「ワープ航法で行きましょう」
瀬戸内の潮汐を知り尽くしたダイスケがうれしそうに言う。
「南西に向かうなら朝の引き潮に乗ればいいんですよ」
じつは瀬戸内海には「分潮嶺」ともいえる場所がある。山でいう分水嶺と同じで、そのラインを境に海の水が東側(大阪側)と西側(九州側)へ流れる分かれ目だ。
この分潮嶺はしまなみ海道の東側にある。だから南西へ向かいたいなら引き潮(下げ潮)に、北東に向かいたいなら満ち潮(上げ潮)に乗ればいい。
結果からいうと初日のワープ航法は上出来だった。潮はじゅうぶん速く、そこに追い風が加わって僕らは飛ぶように進んだ。
「このままじゃアッという間に着いちゃう。のんびりしましょう」
ダイスケはパドルを置くと竿を出して漂いながら釣りを始めた。
「ここの下は駆け上がりになってて、真鯛のポイントなんですよ」
鯛ラバと呼ばれる漁具を使って真剣にアタリを取っている。こうしてすぐに竿を出せるのがSUP旅の楽しさでもある。
今回、島伝いに漕いでいて気がついたが、瀬戸内では至るところに釣り人の姿がある。岬や磯に陣取る本格派だけでなく、島をぐるりと囲む防波堤やテトラの上、砂浜や橋の上などあらゆるところから人が竿を出している。
よく見たのが車道にクルマを停め、そのすぐ脇で竿を降っている人たち。「ちょっとコンビニ寄った」みたいな感じで、営業車や作業着姿の人もいた。ここでは人と海の距離がとても近い。そんな瀬戸内ならではの雰囲気にほっこりしながら、僕らは南下を続けた。
無人の浜に上がってテントを張る。これぞSUP旅の醍醐味だ。
この日は弓削島の村営キャンプ場にテントを張らせてもらった。差し入れをしてくれた管理人さんとしばらく話をする。
「県外からも多くのお客さんに来てほしいけど、小さな島なのでコロナが怖い。美しい砂浜で遊んでほしいけど、バーベキューの残置ゴミがヒドい。悩ましいです」
きっとこれは日本中の離島や観光地が抱えている問題だろう。2020年の夏は僕ら旅人にとってもいろいろと悩ましいことになりそうである。
翌朝は4時半に起きてSUPを漕ぎ出し、海の上で日の出を待った。雲は厚かったが、海上は凪いでいた。瀬戸内海の朝凪と夕凪は世界有数のうつくしさだと僕は思う。海面に映る自分の姿を見ているとまるで鏡の上に立っているようで、そのまま水の上を歩けそうだった。
やがてまっさらな朝日が昇り、水平線の向こうから銀色の道が延びてきて、僕らのSUPと繋がった。とても美しい朝だった。
荒ぶる瀬戸と反転流
ツーリング2日目には潮汐は大潮となり、潮流れはますます速く、複雑になった。そんなタイミングで眼前に瀬戸が現れた。
「この瀬戸は手強いです。まともに入ったら押し戻されるから、岸ベタで反転流を捕まえましょう」
反転流というのは本流の流れが岸沿いの遅い流れや岩などの抵抗をうけ、水流とは逆に回るもの。その最たるものが「渦潮」で、そこには大きなエネルギーが働いている。激流に棲む川魚が流されずに留まったり、スルスルと遡上することができるのはこの反転流を上手く使っているからだ。
やがて瀬戸が近づいて来た。それまで穏やかだった海面がザワザワと波打ち、もりあがっている。瀬戸に入ったとたん水が重くなり、漕いでも漕いでも進まなくなった。
「ジュンさん! 漕いで!」
かなりピッチをあげて漕いだが、景色がまったく変わらない。まるでルームランナーの上を走っているようだった。
「左に潮目があるでしょう! あの向こう側に行きましょう!」
チラッと横に目をやると岸の近くに潮目のラインが見えた。それは油性マジックで書いたようにクッキリしていた。僕はパドルを大きくスイープさせ、ボードを潮目に寄せる。近づくとライン上には海草や流木や赤いコーラの蓋や虹色の油がプカプカと浮いていた。両側は激潮なのにここだけが真空地帯みたいに静かだった。
「早く! こっちです!」
潮目を越えるといきなりボードがグッと進んだ。まるで電動アシスト自転車に乗った感じだ。
グッ、グッ、グッ、グッ……。
漕ぐたびにどんどん進む。自転車とまではいかないが、歩くぐらいのスピードは出ていた。僕はうれしくなり、ひたすら漕いだ。そのまま20分ほど格闘すると、無事に瀬戸を抜けることができた。
瀬戸を抜けた僕らは小さな浜に上陸し、しばらく休憩することにした。ダイスケがウマそうに煙草を吸っている。僕は流木に腰掛け、越えてきた瀬戸を眺めた。
エンジン船が当たり前になったいまはこれぐらいの瀬戸はなんでもない。しかしこうして人力の小舟で旅をすると、すさまじいパワーに圧倒される。地球は生きている。海は呼吸を繰り返している。人力で旅するとそれがわかる。
SUPの旅は体力的にはしんどいし、安全面でもリスキーだ。でも風や波や潮を全身に感じ取れる。だからこれからもSUPでいろんなところへ行ってみよう。僕はそんなことを考えていた。
海は繋がっている
旅の最終日、僕は大三島の北岸にある小さな浜にいた。
冒頭で「しまなみ海道を旅しようと思ったのにはふたつの理由がある」と書いたが、もうひとつの理由がここ。昨年亡くなった友人に別れを言いに来たのだ。
楠大和君は瀬戸内カヤック横断隊の隊士で、次期隊長を有望視されていたパドラーだった。アウトドア業界に友人が多く、日本中のみんなに愛されていた。僕が横断隊に参加したのも彼がいたからだ。
昨年、楠君は長年勤めていた松山のアウトドアショップを退職し、大三島でカヤックガイドを始めた。その矢先、くも膜下出血で急逝した。まだ40歳だった。
僕は葬儀に列席できなかったが、後日彼の恋人から「展示会で東京に行ったとき、みんなの前でジュンさんに “コイツは俺の弟分だからよ” って言われたのがよっぽどうれしかったみたいで、何度も何度もその話を聞かされました」と言われ涙が止まらなかった。
旅を終えて別れるときにダイスケが墓所の場所を教えてくれた。でも僕は墓前ではなく彼が出航地にしていた浜に参りたかった。楠君はいまも海にいる。そんな気がして仕方がないのだ。
そこはきれいな浜だった。白い砂と透きとおった海。遠くに本州の海岸線と小さな島々が見える。
僕は砂浜に線香を立て読経した。そして楠君が大好きだった麒麟のクラシックラガーで献杯した。
遅くなってごめん。やっと別れを言いに来れたよ。瀬戸内はやっぱりいいね。潮は速いけど、景色がとても優しかったよ。
苦いビールをグビリと飲む。少し塩辛いのは海風なのか涙なのかもうよくわからない。
今回はダイスケとふたりで旅をしたんだ。楠君の分までビールを持ってね。でも楠君がいないからぜんぜん飲みきれなかったよ。
残りのビールを海に流す。
泡がゆっくりと海に溶ける。
この海は世界中の海に繋がっている。だから俺が海を旅するときはいつも君の魂とともにある。楠君、どうか安らかに。海の上でまた会いましょう。
こうして僕は旅を終えた。
あれほど強かった潮が止まり、しまなみ海道は静かに凪いでいた。
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文◎ホーボージュン Text by HOBOJUN
写真◎山田真人 Photo by Makoto Yamada
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PROFILE
フィールドライフ 編集部
2003年創刊のアウトドアフリーマガジン。アウトドアアクティビティを始めたいと思っている初心者層から、その魅力を知り尽くしたコア層まで、 あらゆるフィールドでの遊び方を紹介。
2003年創刊のアウトドアフリーマガジン。アウトドアアクティビティを始めたいと思っている初心者層から、その魅力を知り尽くしたコア層まで、 あらゆるフィールドでの遊び方を紹介。