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荻窪圭のマップアプリ放浪「『大手町』と『丸の内』の違いはどこにあるの?」

大手町と丸の内、その違いはどこにある?

マピオンの境界線マップを使えば、町の境界がくっきりみえる。白字注釈は筆者。『地図マピオン』より。

学生の頃、大手町ってややこしくて苦手だった。

何しろ地下鉄の『大手町駅』って5つもあるのだ。しかもそれぞれが微妙に離れているのである。大手町駅に降りても何線のどの出口に出るかで話が全然違う。しかもご存じの通りこのあたりは道路に沿ってびしっとビルが並んでるので、地上に出てもどれも同じように見えてわけがわからない。

さらに、丸の内ってのがある。大手町は江戸城大手門の前に広がるから大手町というらしい。丸の内は江戸城の内堀と外堀の間にあって江戸城の内なので丸の内というらしい。どっちも江戸城の外堀の内側であり、両者の違いがよくわからない。かくして、江戸城と東京駅に挟まれたさほど広くはないエリアなのに苦手だったのである。

マピオンの境界線マップで見てみよう

そういえば、大手町と丸の内の境界ってどこだか知らなかったなと思い、iPadでマピオンという地図アプリを開いて見る。マピオンは日本の老舗図検索サービス。スマートフォン用地図アプリも出してて、グーグルマップやアップルマップがデファクトスタンダードになってしまっている現在、ちょっと地味ではあるけれども、その色使いやデザインが日本製の地図ならではのカラフルさがあり、時折使っている。

それが、最近、ユニークな機能をどんどん投入していて面白いのだ。特に他にない機能として『境界線マップ』が最近追加された。一般的な地図アプリって意外に『境界』が軽んじられてて、『どこからどこまでが何町?』とか『区界はどこ?』って時に探しづらい。マピオンはそれが分かりやすくて『境界好き』(そういう人たちがいるのである)に人気だったが、とうとう専用機能として搭載したのである。

『地図マピオン』の新機能『境界線マップ』。最近、ユニークなマップが増えて面白いのでぜひ。

これを見ると大手町と丸の内の境界がよくわかる。東京駅の前に広がるのが丸の内。その北側にあるのが大手町。で、ちゃんとチェックして初めて知ったのだが、地下鉄の大手町駅って5つあるけど、都営三田線の駅は大手町じゃなくて丸の内にあったのだ。なんてこった。

『地図マピオン』の『境界線マップ』に路線名を追記した。大手町駅が5つもある上に全部位置がずれてる上に都営三田線はなんと丸の内に存在するのだ!
丸の内・大手町エリアの江戸末期の絵図。道三堀が現存しないのでピンとこなかったが、これで分けたと思うと納得。『国立国会図書館デジタルコレクション』より。

このあたり、道路の下に地下鉄が走っており、ひとつの道路の下にいくつもの駅を置くわけにはいかず(今なら深いところを通せばできるのだろうけど)、少しずつズレて駅が置かれ、こんなややこしいことになったのである。迷うのもわかるよね。同じ駅名でもこれだけ場所が違うのだから。わたしは今でも苦手で、大手町で迷わずに行けるのは将門塚ぐらいだ。

丸の内と大手町の境は家康がつくらせた『道三堀』

なぜ丸の内と大手町はここで分かれているのか。大手町はこの範囲なのか。気になるよね。

それが、江戸時代の地図(江戸切絵図)を見てなんとなくわかった。丸の内と大手町の間に『堀』があったのだ。徳川家康が作った『道三堀』である。これで分けたのだな。

のちの『大手町』は内堀と外堀の間で道三堀の北側。同じく道三堀の南側が『丸の内』なのだ。

幕末の江戸を詳細に描いた江戸切絵図(嘉永2年のものなので、ペリーが来日した頃の絵図だ)に続いて、東京時層地図で明治時代前期と後期を見ると、このあたりの変遷がよくわかる。江戸時代、大手町から丸の内一帯は全部武家屋敷だった。江戸城の門前だしね。

それが明治維新でその土地が奪われ、広くて平らな土地はそのまま政府のものとなり、官庁街となった。ざっくり言って『赤』で描かれた建物は官庁が、グレーで描かれた建物は軍関係の施設が多い。官庁としては、将門塚があった大蔵省の他、警視庁、司法省、裁判所、農商務省、印刷局などがある。

やがて、明治時代後期に道三堀が徐々に埋められ、カーブしていたところがまっすぐの道になる。そして境界がその道となり、当初は細かく町名が分かれていたのが昭和に整理され、大手町と丸の内になったのである。

明治時代前期の地図(文明開化期)はまだ道三堀が残っている。このエリアはほとんどが官庁。それが明治の終わりになるといきなり空き地に。『東京時層地図 for iPad』(日本地図センター)より。

入り江だった丸の内と陸地だった大手町

ちょっと疑問が解けた。これで大手町と丸の内の違いで悩むことはなくなりそう。

面白いのは、明治の終わりになると、丸の内がごっそり空き地になっていること。その多くは霞ヶ関方面へ引っ越したからだ。なぜ引っ越したのかまでは調べてないけど、赤レンガで本格的な庁舎を作るには丸の内は地盤が悪かったからではないか、とどこかで読んだ記憶がある。

室町時代、丸の内あたりまでは日比谷入り江と呼ばれる浅い入り江で、平川という川の河口部でもあった。つまりは良くて湿地帯、悪くて浅瀬の海だったのである。そこを徳川家康が江戸に入り、川の流路を変えて河口ではなくし、大工事を行って埋め立てたのだ。東京駅もかつて日比谷入り江だった場所。昔は海だったのだから地盤が悪いのも当たり前なのだ。地下水も多く、地盤沈下を防ぐために地下水の汲み上げを規制したら、今度は地下水が増えすぎて駅が浮かび上がりそうになったという話もあるくらい。

逆に、大手町は古くからの陸地だった。将門塚があることからもわかる。詳細はわからないけど、道三堀あたりが境界だったんじゃなかろうか。

大正時代と昭和初期の大手町・丸の内界隈。東京駅ができ、オフィスビルが徐々に増え、行幸通りが作られ、大手町と丸の内の境界は大手門前から伸びる道路になった。『東京時層地図 for iPad』(日本地図センター)より。

『一丁倫敦』と震災後の行幸通り

ちなみに丸の内にあった司法省は霞ヶ関に引っ越して、立派な赤レンガの庁舎を建てた(1895年)。この庁舎は法務省旧本館として現存しているのだ。すごいね。一部は資料展示室として一般公開されているので、いつか行ってみたい。

丸の内のこの広大な空き地は、東京駅と鉄道省になった他、三菱に払い下げられ、三菱はそこに赤レンガのオフィス街を建設し『一丁倫敦』と呼ばれた。まあ、一丁分だけロンドンっぽい街並み、って意味だ。東京駅の開業が大正3年。関東大震災ののち、震災復興事業のひとつとして駅前から皇居前への幅が70m以上ある行幸通りが作られた。東京駅を正面から見られるというので人気の行幸通りはこのときできたのだ。今は東京駅をバックに撮れるというのでウエディングフォトのメッカになっているようで、いつ行っても新郎新婦が写真に撮られている。

行幸通りから見た東京駅。工事が終わり、見通しがすごく良くなったので人気の撮影スポットである。

そして戦後になると大手町の道路も徐々に整備され、多くの堀が埋め立てられ、残った日本橋川の上には首都高速道路が走り、高度成長期に建てられたビルがどんどん建て替えられて、昭和なオフィスビル街から21世紀な高層ビル街に変貌する真っ最中が今だ。

で、高層ビルの谷間に立っちゃうと、視界が同じようなビルだらけになっちゃって、道路は碁盤目ですっきりしてるのに相変わらず迷いそうになるのである。

 

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PROFILE

荻窪圭 

flick! / ライター

荻窪圭 

老舗のIT系ライター、デジカメライターなるも、趣味が高じて『古地図と地形図で楽しむ東京の神社』(光文社知恵の森文庫)など歴史散歩本執筆や新潮社の野外講座『東京古道散歩』講師なども手がける。 https://ogikubokei.blogspot.com/

荻窪圭 の記事一覧

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