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荻窪圭のマップアプリ放浪「時代モノ小説に出てくる遊廓『吉原』はどこにあったのか?」

あの有名な吉原はどこにあった?

以前、超有名だけど、どこにあるかといわれるとちょっと考えちゃう、あるいは意外に具体的な場所が知られてない場所の代表として『日本橋』を取り上げた。しかし、考えてみたらそれ以上の場所があったのである。

それは遊廓のあった『吉原』(よしわら)。

わたしも上京してしばらくは、東京のどこかにあるのだろうけど、どこでもない場所に概念としてのみ存在するのかと思っていた。つまり、想像上の存在が吉原なんじゃないかと。そんな圧倒的な知名度を誇る『吉原』は、実際にはどこにあるのか?

『スーパー地形』より。吉原があったのは赤い点線で囲ったエリア。標高2mを基準に色を付けてあり、吉原は周囲より少し高くなっているのがわかる。その地面に歴史アリ。

『吉原』という名前はなくなり『千束四丁目』に

実は、今『吉原』という地名はないのである。昭和40年代の住居表示適用で千束四丁目になったからだ。

『東京時層地図』の2画面表示機能で、その場所を表示してみた。左が吉原という住所がなくなる直前のもの。右がなくなった後だ。

『新吉原』だった昭和30年代。その後住居表示制度によって『千束四丁目』となり、吉原が地名から消えたのだった。

気になるのは『吉原』ではなく『新吉原』だったということ。我々が『吉原』と呼んでいた場所はそもそも『新吉原』なのか。いつから『新吉原』なのか、『旧吉原』があったとしたらどこなのか。そもそもなぜ『吉原』なのか。

そこからスタートしたい。

江戸最初の『吉原』は今の人形町にあった

『国史大辞典』によると、1617年(元和三年)に遊廓が設置されたが、1657年(明暦三年)の明暦の大火により、移転させた(これが新吉原)のだという。

江戸の街が大きくなると、吉原は江戸城に近すぎるので、郊外に移転させたってのが正しいのだろう。

そこで移転する前の『吉原』を求めて1617年から57年の間に描かれた江戸絵図を探してみたところ、見つかったのである。

1657年の『新添江戸之図』。右の方に『虫食い』と描かれたエリアがあるので、これは、あとになって写されたものなのだろう。これを見ると、日本橋の北東に『吉原』がある。これである。北側に大門があり、堀に囲まれた隔絶されたエリアだったようだ。

明暦3年の『新添江戸図』の写し(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)で『吉原』を発見。その場所は今の人形町だ。入口は北側の大門のみで堀で囲まれているのがわかる。

ここ、湿地帯で葭の原だったので、葭原と呼ばれており、葭を吉字に変えて『吉原』としたそうである。

にしても、日本橋や江戸橋にこれだけ近かったら、そりゃ、もうちょっと遠くに移したくもなるわなって場所だ。

で、その移転前の『吉原』は今のどこなのか?人形町である。吉原の北東にある太い水路の跡(浜町川緑道)は今でも残っているのでそれを基準に考えると、人形町駅の東側辺り。訪れてみると『大門通り』を発見。吉原の大門(おおもん)が語源だ。

大門通りの近くに鎮座する末廣神社を訪れると、境内の案内板に『吉原がこの地にあった当時、その地主神産土神として信仰されていました』とある。

吉原の地主神だった末廣神社。

吉原から新吉原への移転

さて1657年の明暦の大火で焼失した吉原は、仮吉原を経て、新吉原へ丸ごと移転し、当初の吉原は『元吉原』と呼ばれるようになった。

では吉原が移転した先の新吉原に行こう。

新吉原がどんなところに作られたのか?国立国会図書館デジタルコレクションに新吉原ができる前の1644年(正保元年)の江戸絵図があったので引っ張り出してみた。『のちの新吉原』というあたりに作られたのだ。

『正保元年御江戸繪図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)より。千束池があったあたりが黒く塗られている。水田を表す色のようだが、沼地か低湿地帯にしか見えない。その何もない中に新吉原が作られたのだ。

この墨で塗られた一角は湿地帯で、概ね水田。室町時代には千束池と呼ばれる大きな池があった。つまり『何もない』場所に人工的に作った町なのである。

江戸城からそこそこ離れた郊外で、回りに武家屋敷も集落もない低湿地で、遊廓を作るのに適した場所だったのだろう。

次に新吉原が描かれた江戸絵図を探そう。1682年(天和二年)の増補江戸大絵図絵入りに新しい吉原を発見。水色の線、つまり堀で囲まれた一角があり『傾城町』と書かれている。傾城の元ネタは中国の漢書。その色香で城を傾かせるほどの美女の意で、日本では高級遊女を指すようになった。だから傾城町は遊廓のこと。

三谷とあるのはこのあたりの地名で、今は山谷と書く。傾城町の右上にある道は日本堤で、その横に流れる水路は山谷堀。お金持ちは隅田川から山谷堀に舟で入り、吉原へ通ったのだそうな。周辺にはまだ水田が多く湿地帯に作られたのがわかる。

天和2年の『増補江戸大絵図絵入り』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)より。ランドマークがカラフルなイラストで見やすい。吉原ならぬ『傾城町』と書かれている。

湿地帯の上に盛り土をして作った地形の名残が今も

興味味深いのは、地盤が悪い場所にわざわざ土を盛って新吉原を『造成』したということだ。一大土木工事が決行されたのだ。

その造成工事の名残は今も残っている。『スーパー地形』アプリで標高パレットをいじり『標高1mと2mで色が変わるようにセットした』地形図を見ると、新吉原の一帯だけ周辺よりちょっとだけ標高が高いのだ。江戸時代に湿地に土を盛って造成した人工地形が350年以上のちの今でも残ってるのである。すごいよね。

では『新吉原』の名を求めてもうちょっと時代を下ってみる。1772年(明和四年)の分間江戸大絵図だ。この絵図は文字もはっきり書かれていて見やすく情報量も多いので、江戸中期の地図では一番好き。

これを見ると、大門からしか出入りできなかったこと、大門の両側には茶屋があること、吉原は『新吉原中之町』だったこと、その中に細かい町割りがあってそれぞれに名前が付いていたことなどがよくわかる。

縮尺はかなり不正確なので田が少なく見えるが実際には水田はもっと広かったはずだ。浅草方面から見たら田んぼの中に塀で囲まれた別世界があるという感じだったんだろう。

新吉原の裏手には鷲神社(おおとりじんじゃ)があった。1772年の江戸絵図では『長国寺』とある。今でも酉の市で有名な鷲神社は長国寺の境内社だったのだ。

明和4年の『分間江戸大絵図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)より、新吉原の拡大図。新吉原中之町とあり、入口には大門も描かれている。大門の前には『茶屋』、新吉原の裏手には長国寺(鷲神社)がある。

堀も地名もなくなり今ではうっすら地形だけが残る

江戸切絵図『今戸箕輪浅草繪図』(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)より、新吉原周辺。新吉原に3つの稲荷、新吉原の外側に鷲明神が描かれているなど細かいのがミソ。大門からのわざと曲げられた道も描かれている。

吉原の遊廓から酉の市の行列を眺める有名な浮世絵がある。名所江戸百景の『浅草田圃酉の町詣』だ。遊女が客を取っていて遊んでもらえない猫が酉の市の行列(人々が大きな熊手を持っている)を眺めている夕刻を描いたもの。寂しくぽつんと座っている猫の哀愁が素晴らしい。

これが描かれたのは1857年だそうで、その頃に作られた江戸切絵図には鷲明神や、新吉原の3つの角にあった稲荷も描かれている。鷲神社は明治の神仏分離で独立した神社となって現存。3つの稲荷はひとつにまとめられ、吉原神社となっている。

歌川広重による遊廓から見る鷲神社酉の市。猫の背中に状況を物語らせる構図といい、酉の市に合わせて熊手型のかんざしや鳥のモチーフを随所にいれるなど芸が細かいのだ。

現在はもちろん堀もなく、昭和31年の売春防止法施行により遊廓でもなくなり、それどころか『吉原』ですらないので、『元新吉原』と呼ぶべきかもしれない、でも現地にはそこが吉原だった時代を受け継ぐあれやこれやが残っている、そんな400年の歴史を持つエリアなのだった

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荻窪圭 

flick! / ライター

荻窪圭 

老舗のIT系ライター、デジカメライターなるも、趣味が高じて『古地図と地形図で楽しむ東京の神社』(光文社知恵の森文庫)など歴史散歩本執筆や新潮社の野外講座『東京古道散歩』講師なども手がける。 https://ogikubokei.blogspot.com/

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