日本から世界に羽ばたいた国産ウェットスーツ「VICTORY」とは?(前編)
FUNQ NALU 編集部
- 2021年08月30日
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◎出典: NALU vol.118
国産ウェットスーツの原点「VICTORY」に迫る!
「ビクトリーウエットスーツ」――まだダイビング用スーツを着ていた日本サーフィンの草創期に、はじめてサーフィンに向けたウエットスーツを開発。今に引き継がれる数々の技術革新を起こした。
さらにはサーフィンの本場アメリカに進出し一斉を風靡。ライダーに擁したのは、マイケル&デレクのホー兄弟、マーク・リチャーズ、ハンス・ヒデマン、キム・メアリッグなどなど、名実ともに世界のトップで活躍したサーファーたち。日本から発信し、世界にその名を知らしめた稀有なブランドである。
日本のウエットスーツの礎を築いた「ビクトリー」は、どのようにその歴史を創ったのだろうか。 共同オーナーとして同ブランドを設立した黒坂延生氏に話を聞く。
ビクトリーが生んだサーフィン用ウエットスーツ
黒坂延生氏(以下黒坂)
「1963年頃、滝川大東さん、和泉利明さん、私の3人で横浜の浅間町にあるアパートの一室で始めました。当初はダイビング用スーツを作りながら徐々にサーフィン向けのウエットスーツを開発していきましたね。1970年頃茅ヶ崎市に移転した後、本格的にサーフィンに特化したウエットスーツの製造を開始しました」
’60年代にすでに日本でサーフィン用のウエットスーツは作られていた。その頃のサーファーはどんなウエットスーツを着ていたのだろうか?
黒坂「アメリカでは『ボディグローブ』、『オニール』などのサーフィン用ウエットスーツが誕生していましたが、まだ日本ではウエットスーツというと海女さんが着用する産業用のものやダイビングスーツという時代でした。ですので、サーファーもダイビング用スーツを着てサーフィンしていましたね。
ウエットスーツはこうして開発された
黒坂「はじめはダイビング用スーツをもとにして手探りで作っていました。海から上がってきたサーファーたちのウエットスーツが擦れている部位を調べ、パドリングでが何が起きているか、テイクオフ時にどこにストレッチが多くかかっているか、ライディング中に生地がどう動いているかを徹底的に研究しました。ビクトリーがウエットスーツブランドとしてはじめておこなったのは、まず機能性重視だったウエットスーツにファッション性も取り入れて進化させたことです」
ウエットスーツ全般に言えることだが、昔は黒いネオプレーン素材しかなかった。
色付きのジャージ生地はあったが、スポンジが黒いから水に濡れると明るい色でも発足が悪くなるのが悩みだった。
黒坂「そこで世界でもはじめて白いネオプレーン素材をスポンジメーカーと開発して、その上にカラーのジャージを貼り付けた生地を作り、ジャージが濡れても発色のきれいなウエットスーツを完成させました。発色の良いカラーの生地が増え、サーファーがウエットスーツによっても個性を表現できるようになりました」
パッドが特許を取得。さらに雑誌広告とカタログも作成
黒坂「ダメージの受けやすい部位である膝に付けるパッドも、ビクトリーが開発し特許を取得したものです。これは同業他社に使用してもらうことでサーファー人口を増加させる要因にもなりました。また初の雑誌広告とカタログを作成しました。モデルとして藤沢譲二氏(フリュードパワーサーフクラフト・オーナー)にお願いして成功を収め、これが海外サーファーの目に留まり、外国人サーファーをサポートしていくこととなったんです」
▲今では普通となっている、カラフルなジャージ生地を使用したウエットスーツが誕生したのもビクトリーの存在があったからこそ
国産メーカーとしてはじめてのアメリカ進出
外国人トップライダーが多く在籍していたビクトリーは、「アメリカ市場に進出しては」と助言をいただくことに。ブランドが世界的に認知されるようになったため、そのチャンスを活かそうという思いだった。
黒坂「それが1980年前後、場所はカリフォルニアのオーシャンサイドでした。もう博打でしたよね。それこそゴム屋さんから全部ひっくるめて一緒になっていこうということで。黒船の襲来から今度日本丸が現地に行くことになったわけです(笑)。でも、アメリカのマーケット自体も今までになかったウエットスーツで非常に珍しいといって取り入れてくれたんですよ。向こうは既製品が多いし、黒い生地が主流でしたから」
現地で縫製工場を作り、製造・販売を行ったビクトリー。現地のマネージャーに彼らの生産のノウハウやハンドリングの仕方を教え、彼らがそこで一生懸命にやってくれた。そのマネージャーはエディといって、のちにハワイでウエットスーツブランドEXCELを立ち上げた人物だ。
▲長年ビクトリーのライダーとして活躍したマイケル&デレク・ホー兄弟(中央左がマイケル、右がデレク)。デレク・ホーはパイプラインマスターを2度、トリプルクラウンを4度制し、1993年ハワイアンとして史上初の世界チャンプとなった
▲パイプラインでのマイケル・ホー。ライダーとしてノースショアで存在感を持つサーファーがいることはブランドとして大きな意味を持つことだったに違いない
現在でも海外から受け入れられる日本ウエットスーツのクオリティ
ビクトリーの誕生時から引き継がれる日本人のウエットスーツ作りへのこだわり。現在でも世界のサーファーに受け入れられる高品質の秘密を、後編では探っていく。
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PROFILE
FUNQ NALU 編集部
テーマは「THE ART OF SURFING」。波との出会いは一期一会。そんな儚くも美しい波を心から愛するサーファーたちの、心揺さぶる会心のフォトが満載のサーフマガジン。
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