裏銀座縦走コースの核心部『野口五郎小屋』|シェルパ斉藤の山小屋24時間滞在記

烏帽子小屋のさらに奥、厳しい環境下に佇む野口五郎小屋へ。下界のうだるような暑さから逃れた隔絶された別世界には、ゆったりとした空気が流れていた。

烏帽子小屋から裏銀座縦走コースの稜線を歩くこと約2時間半。野口五郎小屋は斜面の窪んだ場所にひっそりと建っていた。

気象条件の厳しさを建物の佇まいが語っている。伏せているかのように低く建てられているのも、青い屋根に石がたくさん積まれているのも、この稜線を吹き荒れる風がすさまじいからだろう。かつて野口五郎小屋にはテント場があったが、強風でテントが飛ばされて危険なため、廃止せざるをえなくなったと聞いている。

一帯にはハイマツすら生えていない。白い花崗岩質の岩場に囲まれて無機質に感じる山岳地帯は生物の生息を拒んでいるほど、過酷な環境に思える。

野口五郎岳は花崗岩質の石が多く、一帯は白い岩と砂で覆われており、晴天時はまぶしい。野口五郎小屋は強風の影響を受けない位置に建つ

ところが、野口五郎小屋はそんな自然の厳しさとは正反対のゆったりとした空気が流れていた。ご主人の上條一家もスタッフも、外のベンチに座り、陽射しを浴びて寛いでいる。

山小屋の前のベンチは日なたぼっこに最高の場所。おばあちゃんの家の縁側に来たみたいに落ち着けるし、人々との距離も近くなる

ベンチに置かれたポータブルラジオからは昔の歌謡曲、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』が流れている。風もなく、陽射しも穏やかでほのぼのとした光景だ。その姿を目にすると、ここが過酷な自然環境に晒される山岳地帯だとは、とても思えない。

「小屋の中はひんやりしているから、みんなで日なたぼっこをしているんですよ」と、ご主人たちが笑顔で語る。

この時期に日なたぼっこかよ!と僕は笑ってしまった。

素泊まりの宿泊者や休憩するお客さんのために自炊場が箇所用意されている。低いテーブルとベンチも使い勝手がよく、日当たりもよくて居心地のいい場所だ

僕らが野口五郎小屋を訪れたのは7月半ばである。ニュースや新聞などが「命に関わる危険な暑さ」と連日報道して「無理をせずに冷房をお使いください」と警告していた酷暑の時期である。

日本列島がそんな状況なのに、ここでは陽射しに幸福を感じて日なたぼっこを楽しんでいる。世間の感覚と隔絶された天上の別世界だ。大量の電力を消費するエアコンで命の危険を回避するのではなく、みんなここに来ればいいじゃないか、とつくづく思う。

各部屋は板の壁で仕切ってある。屋根材の波板を縦に張って仕切られた部屋もある。天井が低いため、室内を歩くときは頭上に注意。梁のところどころにガードがされている

野口五郎小屋の室内は、防風対策で建物が低く抑えられているため、天井が低い。梁に頭をぶつけないように注意書きがあったり、部屋の仕切りに屋根材の波板が使われていたりもする。そんな創意工夫に、北アルプスの奥深き山岳地帯にある山小屋らしさを感じる。部屋に荷物を置いた僕は、スタッフがいる陽だまりに出て寛いだ。

野口五郎岳の山頂までは山小屋から歩いて分程度。同名の歌手がいるが、当然こちらがご本家。彼の名はこの山に由来する

「今日はこんなに穏やかだけど、風が吹くと稜線を歩いている人が吹き飛ばされそうになる。ガスに包まれると自分がどこにいるのかもわからなくなっちまう。何年か前に泊まった女性のお客さんは烏帽子小屋に向かったのに、うちに戻って来て『ここは烏帽子小屋ですか?』って真面目な顔で聞いただよ。途中の分岐で逆方向に進んじゃったんだな」

盛親さんが語る山小屋のエピソードに耳を傾けている間に、今夜泊まる予定の登山客がちらほらやって来た。

野口五郎小屋の受付の窓口は小さい。写真やポスターがぎっしり貼られた壁にぽっかり穴が空いているように設置されている。壁に貼られたさまざまなインフォメを眺めるのも楽しい

年配の方もいるし、若者もいる。水晶岳から縦走してきた若い女性2人組は陽だまりに腰を下ろし、コンパクトストーブをセットして、その上におつまみの缶詰を置いて炙り、缶ビールをグビグビと飲む。年配の男性登山者はそんなふたりに、「あんたら、パフィーにそっくりやなあ」と声をかけた。

関西弁の女性2人組という項目以外はどこも似てない、と僕は思うんだけど、遠い場所にある山小屋まで来れたことが宿泊者の仲間意識を生むのか、気軽に話しかけられる雰囲気がこの山小屋の陽だまりにはあるように思う。

写真右からご主人の上條盛親さん(73)、妻の征子さん(73)、息子の文靖さん(46)。そして男性スタッフの多川敦さん(40)と女性スタッフの佐伯真由子さん(23)。家族で経営している山小屋だから家庭的な雰囲気に包まれているのも当然だ。多川さんは常駐隊に10年いた山のベテランである

烏帽子小屋の上條文吾さんと、野口五郎小屋の上條盛親さんは実の兄弟だ。3人の兄弟がいて、長男は山麓の温泉旅館の高瀬館を、次男が烏帽子小屋を、三男が野口五郎小屋を受け継いだという。

言われてみれば、烏帽子小屋と野口五郎小屋は雰囲気が似ている。どちらもその自然環境に似合っているし、どちらも家庭的な雰囲気がある。ただし、ご主人のキャラには違いを感じる。

次男と三男、それぞれの性格の違いなのか、文吾さんに対しては真面目な印象を持ったが、盛親さんには愛嬌と茶目っ気を感じる。

食堂の天井は白く塗装されており、テーブルクロスの柄の効果もあって部屋全体が明るい。壁には山岳写真や周辺で見られるコマクサやイワウメなどの写真が飾られている

それを体感したのは、夕食後のお誘いだ。「こちらでいっしょに飲みましょう」と上條親子に招かれて盛親さんのお昼寝部屋に入ると、そこにはお酒がずらりと並んでいた。

「まあ、とりあえず一杯」と、上條親子は缶ビールを開けて、僕と神田さんのグラスに注ぐ。それが飲み終わらないうちに次の缶ビールを開けてしまう。さらに「この酒は飲みやすいんですよ」とビールが飲み終わってないのに、日本酒を別のコップになみなみ注ぐ。

野口五郎小屋は水場がなく、雨水を貯めて使用。洗面所には取水器が吊るされているが、蛇口も設置されている。排水はEMボカシ菌のある便槽に入るので洗剤の使用は禁止

烏帽子小屋で「あの小屋は飲まさせるぞ」と聞いていたが、予想以上だった。盛親さんも文靖さんも人懐っこい笑顔ですすめるものだから気分がよくなって、つい誘われるままに飲んでしまうのだ。

酒豪で知られる山岳雑誌の女性編集者が、この山小屋で気分良く飲んで酔いつぶれて、翌朝は幽霊のような顔で起きて来たというエピソードを聞いているが、つい飲みたくなってしまう魔力がこの山小屋にはある。

自分がどうやって寝床に戻ったか覚えてないほど僕も飲まされたが、上條親子は就寝前に水を渡してくれて、夜中に何度も飲んだおかげで、翌朝は歩けなくなるほどの二日酔いになることはなかった。

トイレはボットン便所と呼ばれるタイプだが、便槽にEMボカシ菌を入れて処理している。室内トイレと外トイレがあり、外の男性用トイレは扉がなくてとても開放的。ここで用を足すと妙に気分がいい

午前中は前日と同じく、陽だまりで日なたぼっこをしてすごした。ベンチにあるポータブルラジオは「無用な外出を控えてください」と熱中症対策を伝えている。

ここが天上の別世界であることをあらためて実感した。

朝食

海苔や目玉焼き、漬物が並ぶ朝食。野口五郎岳やライチョウやコマクサなどが描かれた海苔の袋や、ハート型に焼かれた目玉焼きが愛らしい。ごはんも味噌汁もおかわり自由

夕食

夕食のメインのおかずはサツマイモやナス、カボチャなどの具材を揚げた天ぷらだ。食べ応えがあって満腹感が得られる。天ぷらの周囲に添えられた山菜や漬物などもごはんのおかずにいい

menu

price

access

裏銀座縦走コースの核心部にあるため、山小屋までのアクセスは遠い。竹村新道のルートや水晶小屋からのコースもあるが、もっとも近いルートは高瀬ダムから烏帽子小屋経由での縦走コース。高瀬ダムからのコースタイムは約9時間

出典

SHARE

PROFILE

PEAKS 編集部

PEAKS 編集部

装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。

PEAKS 編集部の記事一覧

装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。

PEAKS 編集部の記事一覧

No more pages to load