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黎明の槍 〜開山から喜作新道開通に至るまでの100年記〜

表銀座と裏銀座のシンボルといえば、やっぱり槍ヶ岳。両縦走路から見える尖峰は、日本のマッターホルンとさえ称される。その開山は1828年。え、190年も昔にどうやって? てか、なんで銀座が名前に? ゴールデンルート誕生以前の槍ヶ岳について。

衆生済度のための開山という一大事業。

表銀座だろうが裏銀座だろうが、南下するルートを選べば、槍ヶ岳を眺めながら歩くことになる。近づくごとに、どんどん大きくなっていく槍の三角形。天を突き刺すその威容は、そこがまるで此岸と彼岸の境界であるかのよう――。

そう感じるのは、1世紀前の登山者も同じだったのかもしれない。笠ヶ岳から望む槍ヶ岳の美しさに感嘆し、開山の悲願を抱いた播隆上人その人である。

同じく均整のとれた三角形である笠ヶ岳に登ったのが1823年。その5年後に槍ヶ岳山頂に立ち、そこに岩の祠を築いて仏像を安置したのだった。案内人を務めた中田又重郎とふたり、標高3180mの槍の穂先をはじめて踏んだとされている。

当然、当時は縦走路の整備などなされていなかった。表銀座や裏銀座の名前が生まれるよりも遥か昔のこと。播隆上人らは猟師道や獣道といった道でないような道を歩き、決死の思いで岩に取りつき、〝未踏〞の地に立ったのだ。

その旅路は飛州新道(飛騨新道)にはじまった。名前のとおり、飛騨と信州を結ぶ交易の道。江戸時代、長野県安曇野市三郷小倉(当時の小倉村)から岐阜県吉城郡(当時の飛騨高原郷中尾村)へと至るそれは、鍋冠山や大滝山、そして上高地を経由した。

しかし、島々谷をはじめ毎年のように崩落があり、維持の困難さから1861年に閉鎖。完成からわずか26年後のことだった。

小倉村から飛州新道を通って槍ヶ岳に登頂した播隆上人だが、頭のなかにあったのは「衆生済度」。いっさいの人間、いや生きとし生けるものすべてを救済して彼岸へ渡らせること。槍の穂先は、まさにその渡し橋だったということだ。

鎗ヶ嶽絵図(播隆筆、中村家蔵)

播隆によって成し遂げられたもうひとつの偉業も忘れてはいけない。山頂付近における綱の設置だ。自分の後に続く者が少しでも安全に登れるように。ひとりでも多く悟りの境地に導けるように。

それは「善の綱」と呼ばれ、藁縄が傷んだとみるや鉄製のクサリへの架け替えも決意。時は江戸時代の末期。登るだけでなく、資材を集めることさえ大変な時代だった。

こうした宗教的行為が純粋な登山に置き換えられるまでは、それから約半世紀の時を要する。そこで重要な役割を担ったのは、日本に進出していた外国人だった。当時の日本は近代化に向けて邁進中。指導や宣教にやってきた彼らにとって、槍ヶ岳はかっこうの狙いどころだったに違いない。

とくに繰り返し槍ヶ岳に臨んだのがイギリス人宣教師のW・ウエストンである。島々谷から徳本峠を経て上高地に至る道は、いまやウエストンルートとさえ呼ばれている。彼が横尾本谷から山頂を目指したのが1891年のこと。このときには登頂を果たせなかったが、翌年には念願が叶い、槍沢より自身初登頂を果たしている。

ウエストンらによってもたらされた近代アルピニズム。それが花開くのは、20世紀を迎えてからのことである。

日本人登山〝家〞として最初に槍ヶ岳に登頂したのは小島烏水と岡野金次郎だった。小島烏水の『鎗ヶ嶽探検記』には次のような記述がある。

「余が鎗ヶ嶽登山をおもひ立ちたるは一朝一夕のことにあらず。何が故に然りしか。山高ければなり。山尖りて嶮しければなり」

アルピニズムの萌芽が読み取れる言葉である。彼らに続くように、主として常念乗越を越えて槍沢から、多くの登山者が槍の穂先を目指していった。

こうして槍ヶ岳を中心に登山文化が成熟していくなかで、最後の分水嶺となったもの。それが喜作新道の開通である。大天井岳から山頂までの道のりがグンと短くなったことで、秘境の霊峰という立ち位置は過去のものに。稜線には登山者が大挙するようになった。そしていつしか表銀座の名が与えられ、ゴールデンルートの地位を獲得するに至ったのだ。

播隆上人
1786年生まれ。江戸時代後期に活躍した山岳行者。笠ヶ岳を再興するなかで、眼前に聳える槍ヶ岳の雄姿に開山を決意したとされる。1828年に槍ヶ岳初登頂。1840年に没するまでに計5回も槍ヶ岳登山に臨んだ。

外国人登山家から輸入した近代アルピニズム。

ピッケルなどの装備を持ち、ピークハントを目指す。ヨーロッパのアルピニズムを日本に輸出したのは、ガウランドが第一人者である。

1877年に槍ヶ岳の山頂に立ったガウランドは、信州の山岳地帯を「日本アルプス」と命名。それは後にウエストンの著書『日本アルプス登山と探検』によって世界中に紹介されることになる。

ウエストンはよく登山案内人を伴って山を歩いたが、とくに上條嘉門次との友情でも知られる。彼が槍ヶ岳へ登る際に使った坊主岩小屋は、播隆が篭った場所でもあった。

W.ガウランド
1842年生まれ。イギリスで化学兼冶金技師として実績を積み、1872年より日本へ招聘される。冶金技術技術指導だけでなく、日本古墳の研究としても実績を持つ。日本ではじめての近代登山を六甲山にて実施した。

W.ウエストン
1861年生まれ。宣教のために日本で長期滞在すること3回。マッターホルンに登頂するなど持ち前の登山意欲は日本でも発揮され、日本アルプスを遍く歩いた。その実績から、各地でウエストン祭も行なわれている。

日本人登山者が次々と槍の穂先を目指す。

日本初となるこの登山案内書『日本風景論』の刊行もあり、当時はいつになく近代登山の機運が高まっていた。小島烏水しかり、後年に名を馳せるほどの文人も槍ヶ岳の山頂を踏んでいる。

1909年に槍ヶ岳に登頂したのは、あの芥川龍之介。旧制中学の仲間と歩いた山行は『槍ヶ嶽紀行』として発表されている。それよりも長大な縦走を果たしたのが、1915年の河東碧梧桐。針ノ木峠から槍ヶ岳を経て上高地へ。後の裏銀座縦走路を歩く北アルプス縦断であった。

芥川龍之介
1892年生まれ。小説家。『羅生門』や『河童』などで知られる日本を代表する文豪。服毒自殺という悲劇的な最期もあり、繊細なイメージが強いが、弱冠17歳にして槍ヶ岳に登るというマッチョな一面も持っていた。

河東碧梧桐
1873年生まれ。俳人。正岡子規の弟子であり、全国行脚をしながら、定型や季語から離れた俳句革新運動を牽引。登山家、旅行家としての顔も持ち、槍ヶ岳への縦走のほかにも立山や白馬岳、白山にも足跡を刻んだ。

新道が槍ヶ岳から延び、後のゴールデンルートに。

登山者が槍沢へと迂回しながら槍ヶ岳に向かう状況に、新道開削を思いついた小林喜作。そのうえ山小屋も建てるとくれば、商売上手なビジネスマンといった人物像だ。諸説ある表銀座の由来のうち、この小林喜作もひと役買っている。

というのも、いわゆる「銀ぶら」のような軽装で表銀座を行き来していたために銀座の名前がつけられたかもしれないのだ。スゴ腕の猟師であったなら、さもありなん。単純に登山者が銀座のように多かったから、という説もある。

小林喜作
1875年生まれ。猟師。表銀座を猟場としていたことから、登山案内人としても活躍。1920年に喜作新道を開通し、2年後には殺生小屋(現殺生ヒュッテ)を開業するが、翌年に親子で雪崩に巻き込まれて没する。

現在、大天井岳付近には小林喜作のレリーフがある。道中には10mのそれが連続する2段ハシゴ。雨天時は濡れたハシゴに手足を滑らせないよう注意したい。

江戸後期から大正まで、日本登山史の黎明期

1828年 播隆上人、槍ヶ岳開山
1867年 大政奉還、王政復古の大号令
1868年 明治維新
1877年 ガウランド、槍ヶ岳と乗鞍岳に登頂
1880年 上條嘉門次、明神池畔に嘉門次小屋を建てる
1892年 ウエストン、槍ヶ岳に自身初登頂
1894年 志賀重昂、『日本風景論』を著す
1896年 ウエストン、『日本アルプス登山と探検』を著す
1902年 小島烏水らが槍ヶ岳に日本人登山者として初登頂
1905年 小島烏水らが日本山岳会を結成する
1907年 焼岳大爆発
1910年 韓国併合
1914年 第一次世界大戦勃発
1920年 小林喜作、喜作新道を開通

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PEAKS 編集部

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装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。

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