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穂高岳が人気山域となっていった歴史を振り返る

穂高の山が登られるようになって百数十年。人間の侵入を拒むかのような急峻な岩壁に囲まれたこの山が、日本を代表する人気山域となっていった歴史を振り返る。

19世紀末に始まる歴史

山域全体がけわしい岩壁や岩稜に囲まれている山容からして当然ともいえるが、穂高岳が登られるようになったのはそれほど古いことではない。
登山記録が見られるようになるのは19世紀末になってから。一方、槍ヶ岳の初登頂は19世紀前半(1828年、播隆上人によって)。
それと比べると、穂高岳は北アルプスでも最後に残された秘境であったことがうかがえる。

穂高初の山小屋として1925 年に開業した穂高小屋(現・穂高岳山荘)。写真は1925 ~ 1930年ごろに撮影されたもの。

もっとも、同じようにけわしい岩壁で囲まれた剱岳の山頂で平安時代の錫杖などが発見されていることを考えると、穂高ももっと早くに修験者や猟師などによって登頂されていた可能性もある。ただし、少なくとも記録に残っているものとしては、1893(明治26)年、測量士の館潔彦と山案内人の上條嘉門次による前穂高岳初登頂が最初となる。

その後、1906(明治39)年に奥穂高岳と西穂高岳が登られ、穂高山域は次々に〝開山〞されていく。
19世紀から20世紀に移るこのころに、穂高岳の登山の歴史は始まったといっていい。

穂高の開拓者

穂高開拓期における重要人物をあげるとすると、ウォルター・ウェストン、上條嘉門次、鵜殿正雄の3人ということになるだろう。

ウェストンはイギリス人宣教師。ヨーロッパアルプスでマッターホルンなどを登っていた実力者で、来日してからも国内の山を精力的に登り、日本の山を世界に紹介した人物。彼は館潔彦が前穂高岳を初登頂した24日後に、同じく上條嘉門次の案内で前穂高岳に登頂している。1912(大正1)年にはやはり上條をパートナーにして、奥穂高岳南稜を初登攀。そうした功績が讃えられ、上高地にレリーフが設置され、穂高登山の祖として現代の登山者にも親しまれているのはご存知のとおり。

ウェストンのよき相棒として知られた上條嘉門次は、上高地を拠点としていた猟師であり山案内人。

穂高の開拓に大きな功績を残した穂高小屋創設者の今田重太郎。1929年、奥穂高岳山頂に祠を設置した。

ウェストンだけにかぎらず、槍・穂高初期の重要な初登攀にはこの上條が案内したものが非常に多く、まさに穂高開拓の立役者といっていいだろう。

鵜殿正雄は、日本山岳会創設期メンバー。初登頂こそ館潔彦や阿部郡治に遅れをとったが、このふたりは測量技官。いわば仕事のために登頂をしたわけで、一度登って用を達すれば、基本的にその山にはもう来ない。一方の鵜殿は趣味として山に登る近代登山者の先駆け的存在のひとり。彼は1905(明治38)年に前穂高岳に登り、1909(明治42)年には、前穂からさらに奥穂へと足を延ばし、大キレットを越えて槍ヶ岳にまで至る大縦走に成功している。大キレットの通過には綱が使われており、これは国内でもっとも初期のザイルの使用記録といわれている。

当時の槍・穂高でこれほどスケールの大きな登山はほかに類を見ない。ちなみに、この山行の同行者も上條嘉門次である。

山小屋と登山道の発展

こうした先人たちの活躍により、人跡未踏の秘められたエリアだった穂高岳の実情が次第に知られるようになり、登山の対象として見られるようになっていく。

そこに目を付けたのが、穂高小屋(現・穂高岳山荘)の創設者、今田重太郎である。槍ヶ岳方面で有名な山案内人だった小林喜作が開設した殺生小屋(現・殺生ヒュッテ)に所属し、穂高方面の案内を担当していた今田は、穂高にも登山の拠点となる山小屋の必要性を痛感。1923(大正12)年から調査を始め、翌24年、白出のコルに石室を建設。さらに翌25年には収容20人の木造小屋を建てて、穂高小屋として営業を始めた。

とはいえ、当時はまだ登山道もろくに整備されていない時代。重太郎の後を継いだ二代目小屋主の今田英雄によれば、現在のメインルートとなっているザイテングラートのコースはまだなく、主稜線を往来する登山者がたまにいる程度だったという。

昭和20 年代(1945~1955 年)の穂高小屋。写真は1938 年に再建された二代目となる建物。写真左が涸沢側、右が白出沢側。

日本アルプス初のガイドブックといわれる『日本アルプス登山案内』(1916年発行)に掲載されている地図を見ると、英雄のいうとおり、穂高岳一帯に記された登山道は、前穂高から大キレットを越えて槍ヶ岳に至るルート1本のみ。涸沢経由のザイテングラートルートもなければ、白出沢ルートもなし。涸沢の記載すらなく、現在は人気の高い北穂高岳南稜ルートもない。

上高地から前穂高岳に登るルートは2通りの記載があるが、いずれも現在の重太郎新道とは異なるもので、相当の難路だったようである。いわく、「傾斜急峻にして岩石崩壊し易く、其險難なること比類なし」。ガイドブックに記載のルートといえど、現在の登山道とは比較にならない厳しさだったことがうかがえる。

登山道が未整備であったことは、穂高西面の飛騨側も同じ。現在の新穂高温泉はまだなく、今田英雄によれば、穂高小屋の荷揚げは、新穂高温泉より約5㎞手前の蒲田温泉から山道をえんえん歩くほかなかったという。

こうした状況が変わり始める大きなきっかけとなったのが、1933(昭和8)年、上高地へのバス便の開通。徳本峠越えがメインだったそれまでに比べて、アプローチが圧倒的に簡単になり、大衆登山の隆盛もともなって、穂高を訪れる登山者が増加。それに押されるように、1939(昭和14)年には涸沢小屋が開業。以降、奥穂高方面の登山は涸沢経由のルートが主流になっていく。

長らく穂高小屋1軒だけだった山小屋も、涸沢小屋の開業以降、西穂山荘(1941年)、北穂高小屋(1948年)、涸沢ヒュッテ(1951年)と続いた。

最後のメインルート

上高地へのバス便開通のころには、登山道もほぼ現在と同様のかたちができあがっていたようである。1930(昭和5)年に陸地測量部が刊行した地形図を見ると、大きなところで現在と異なるのは、西穂高岳~奥穂高岳のルートと、涸沢~北穂高岳のルートの記載がない点。そして、岳沢から前穂高岳に至るルートが、現在とはルート取りがかなり異なる点だ。

涸沢~北穂高岳のルートが開通したのは、北穂高小屋開設前年の1947(昭和22)年。このルートは、北穂高小屋建設のための荷揚げルートとして拓かれた。小屋創設者の小山義治の著書にはこうある。
「涸沢から北穂高頂上まで標高差七百メートル、当時は登山路は無論、満足な踏跡もなく、登路は自分の手で開かなければならなかった」(『穂高を愛して二十年』より)

1960 年ごろまでは、山中での作業はほぼ人力に頼っていた。写真は、山小屋で使う水用に、雪渓を切り出して運んでいるところ。

そうして拓かれたのが現在の南稜ルート。いまでは、ザイテングラート~奥穂高岳ルートに並ぶ、穂高屈指の人気コースとなっている。ちなみに小山はこのルートを、約130㎏の梁を担いで荷揚げしたという。その梁は現在も小屋で使われているので、著書を読んでから南稜を登り、北穂高小屋でその梁を実際に見てみれば、往事の登山の苦労がひときわ身に染みて感じられるだろう。

北穂高小屋開設の3年後、1951(昭和26)年には、岳沢から前穂高岳に至る新しい登山道が開通する。開削したのは、穂高小屋の創設者、今田重太郎。奥穂高岳山頂に10年かけて大ケルンを積んだり、後年、白出沢やザイテングラート、そして吊尾根の登山道を改修するなど、穂高の登山環境整備に情熱を傾けた今田のもっとも有名な作品が、この「重太郎新道」である。

岳沢から前穂高岳への道は、前述したように非常に難路であったため、難所を避けた新道の開設が求められていたのである。今田は前穂高岳直下の平地にベースを設け、妻と5歳になる娘をそこで待たせて作業に勤しんだという。新道の区間は約2㎞。今田を含めて4人の作業員は、ひとたびミスをすれば転落必至という危険な場所で毎日、日が暮れるまで作業を進め、わずか2週間で新道を完成させた。

のちに今田の娘は若くして急逝。その3年後の1973(昭和48)年、新道建設のベースにした平地に娘の名前を付けた。それが現在の「紀美子平」である。

ロープウェイの開通

重太郎新道が開通し、はるかに登りやすくなった岳沢に、1956(昭和31)年、岳沢ヒュッテ(現・岳沢小屋)が開業した。穂高の初登頂以来約60年。開拓の時代は終わりを迎え、現代とほぼ変わらない登山道や山小屋などの登山環境がここに完成したのである。

時代はおりしも、日本隊によるマナスル初登頂を契機とした、戦後最大の登山ブームが訪れようとしていた。登山は若者の人気レジャーとなり、穂高を訪れる登山者の数も急増。本来はアルパインクライマーしか登れないような岩の山・穂高。登山道と山小屋が整備されていたからこそ、穂高は大衆登山のフィールドとなることができたのである。

そして1970(昭和45)年には、穂高山域最後といえる大きな変革があった。新穂高ロープウェイの開通である。
これによって標高2000m以上の場所に観光客が来られるようになり、アプローチの大幅な短縮により、西穂高岳は日帰りすら可能な山になった。奥穂高や前穂高、北穂高などの穂高核心部からは少し離れて目立たない存在だった西穂高岳が、麓からもっとも近い「穂高岳」になり、西穂山荘は穂高屈指の規模になった。

さて、これからの令和時代、穂高岳の登山はどう変わっていくのだろうか。登山道と山小屋はこれ以上変わる余地はほぼない。変化があるとすれば、よく噂に上る上高地登山電車の開通だろうか。(文中敬称略)

【穂高岳年表】

【明治時代】

1880年代

上高地の開発が始まる。

1893年

測量士の館潔彦と、山案内人の上條嘉門次が前穂高岳に初登頂。
同年、イギリス人宣教師ウォルター・ウェストンも登頂。

1906年

測量士の阿部郡治が奥穂高岳に初登頂。

1906年

山案内人の小林喜作らが、奥穂高岳から西穂高岳までの縦走に成功。

1909年

登山家の鵜殿正雄が前穂高岳から大キレットを越えて槍ヶ岳まで達する縦走に成功。

【大正時代】

1915年

焼岳が噴火し、大正池ができる。

1922年

筑摩鉄道(現アルピコ交通)が、松本~島々間に鉄道を開業。

1924年

慶應義塾大学山岳部が積雪期の奥穂高岳に初登頂。

1924年

穂高岳山荘の前身となる穂高石室建設。

1924年

慶應義塾大学山岳部が、前穂高岳北尾根と屏風岩を初登攀。
翌年、北穂高岳滝谷も初登攀され、バリエーションルートの開拓が本格的に始まる。

【昭和時代】

1927年

釜トンネルが開通。

1928年

焼岳小屋開設。

1933年

上高地までのバス便が開業。

1939年

涸沢小屋が開業。

1941年

西穂山荘が開業。

1947年

横尾山荘の前身となる横尾小屋開業。

1948年

北穂高小屋が開業。

1951年

涸沢ヒュッテが開業。

1955年

前穂高岳東壁でザイル切断事故が発生。
大きな社会問題となり、のちに作家・井上靖の作品『氷壁』のモチーフともなる。

1956年

岳沢小屋の前身となる岳沢ヒュッテが開業。

1969年

新穂高登山指導センター開設。

1970年

新穂高ロープウェイ開業。

【平成時代】

1993年

上高地へのマイカー乗り入れが通年禁止に。

出典

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