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「シロウマ」か「ハクバ」か、それが問題だ

白馬岳の読みは「シロウマダケ」であり、「ハクバダケ」は誤り。これは登山知識の初歩である。名前の由来は春に現れる雪形「代(しろ)掻(かき)馬」。この「代(しろ)馬(うま)」が転じて「白馬」になった。だからシロウマ。だが、山名辞典にも載っているこの定説を覆す事実が、いま続々と明らかになっている。

白馬岳の山名をめぐる論争が、いま静かに巻き起こっている。

あらためて気づかされるのは、「シロウマ」と読ませるのは白馬岳のみで、ほかは駅も山小屋も、村の名前もみな「ハクバ」。これはあまりに不自然だろう。

ふたつの村が合併して白馬村になったのは1956年。当時、国を挙げてのブームだった登山を背景に、地域の象徴であり、重要な観光資源の白馬岳に村名をちなんだのは当然の帰結だ。ならば、なぜシロウマではなかったのか。

白馬岳開山の父と呼ばれた松澤貞逸(ていいつ)が明治期に最初に建てた山小屋が後の白馬山荘。現在では白馬尻小屋や白馬大池山荘など7軒の山小屋を展開しているが、白馬館という会社名を含めて「シロウマ」と読む名称はひとつもない。

白馬村でもっとも古い村立白馬北小学校の校歌は「高くそびゆるハクバサン」と歌われてきた。
どうだろう? まるで地域全体が示し合わせたように、あえて「シロウマ」をスルーしてきたとしか思えないではないか。

「地元の山関係者の間では昔からハクバダケと呼んできた歴史があり、少なくとも私たちは『シロウマ』だとは思っていません」

こう語ってくれたのは白馬山案内人組合の前組合長、降籏義道さんだ。今年100周年を迎えた白馬山案内人組合(これも読みはハクバ)の歴史を取材する機会が以前にあった。その席には降籏さんはじめ白馬登山の歴史に詳しい山案内人の方々に集まっていただいたのだが、本題そっちのけで話に熱を帯びたのが、このハクバかシロウマかという問題だった。

祖父の代から山案内人という環境で育ってきた彼らにとって、子どものころから慣れ親しんだ山が「シロウマ」と呼ばれることに大きな疑問を感じていた。

「代掻き馬」説を裏付ける確証はまだなにひとつない。

そこで納得のいく答えを求めて調査を続けてきた。ところが古い文献をいくら当たっても、山名の由来「代掻き馬」説を裏付ける記述はいっこうに見つからないという。

登山史を研究して山岳誌『アルプ』や大町山岳博物館の刊行物に寄稿を続けてきた三井嘉雄さんも、著書のなかでこう書いている。

「その説を裏づける資料をさがしてみたのだが、〈中略〉雪形から代馬岳といわれるようになったはずの白馬岳は、そういう解釈のできる文献には一つも出合うことがなく、反対に、それらを否定する材料ばかりが集まってしまうのであった。」ーー『黎明の北アルプス』(岳書房刊)より。

雪形から山名になったという「代掻き馬」説を覆す資料から、代表的な2例を下段に挙げてみる。
「白馬嶽」と記載された江戸後期の古地図と、「白馬」に「ハクバ」とルビを振った1880年の地理誌である。これらはいずれも陸地測量部以前に、「白馬」という文字と「ハクバ」という読みが存在していたという証拠だ。

「残雪白駒の蒼穹を奔騰するが如し(残雪の白い馬が青空を駆け上がるよう)」と書いたのは明治期の登山家、志村烏嶺(うれい)である。「故に白馬と言い」と続くこの「白馬岳第一回登山記」からの一説は、これまであまり知られていなかったもうひとつの山名由来であり、その文面には、だれもが素直にうなずける説得力がある。

「私たちが問題にしているのは読み方ではなく、その根拠が納得できるかどうか。昔の人は黒くて小さな雪形より、山をもっと大きく見ていたと思うんですよね」とは白馬山案内人組合副会長の松澤幸靖さん。まさにそれは、納得の言葉というものだ。

現在の定説

  • 「代掻き馬」の雪形から、
    明治期の陸地測量部が「しろうまだけ」と名付けたことが起源
    「代掻き馬」→「代馬岳」→「白馬岳」

春の田植えの時期になると山頂近くに馬の形をした雪形が現れる。これを農耕用の「代掻き馬」に見立て、そこから「代馬岳(シロウマダケ)」となった。1893 年、陸軍参謀本部陸地測量部が山頂に一等三角点を設置した際、山麓の人々のそうした談話をもとにシロウマダケと名付け、「白馬岳」の字を当てた。これが現在の定説である。

三国境の稜線下にある「代掻き馬」雪形。じつは冬でもその姿を確認でき、田植えの目安は白馬乗鞍岳南斜面の「仔馬」雪形(撮影時は雪のなか)という話もある。

反証その1

  • 最近発見された江戸後期の古地図には
    「白馬嶽」と記されており
    明治期の「代馬岳」説と矛盾する

最近、白馬村の旧家の蔵から発見されたこの古地図は、文政7年(1824年)のもの。江戸時代後期、第11代将軍徳川家斉公の時代だ。いまから200年近く前の地図に「白馬嶽」という山名が記されていたことにより、「明治期の陸地測量部が当て字した」という定説は覆る。ただし、読みが「シロウマ」か「ハクバ」だったかは、ここからは判別できない。

昔は定まった山名がなかったという説も「代掻き馬」につながるひとつの要因だが、山麓から広範囲をカバーしたこの古図には、現在に通じる山名や沢名も少なくない。

反証その2

  • 1880年には、すでに「白馬」を
    「ハクバ」と呼んでいた。
    それを裏付ける文献が存在している

1880年刊『信濃圀地誌畧字引』では、「白馬」に「ハクバ」のルビが振られている。さらに同じ枠内には「同上」という補助の文字。これはひと枠上の「薬師」にある「嶽名」と同じという意味で、ほかに「村名」「川名」「水源」などもあるから、山の名前を指したものだとわかる。陸地測量部が代掻き馬説から名付けたとされる時期より13年も前の文献という点も見逃せない。

上・左)この文献は当時の小学生が地元信州の地理を学ぶために編纂されたもので、写真のページは地名を並べた索引から。右上)「上同」は右から読む。念のため

納得できる仮説

  • 残雪期の山並み全体を見て「白い馬」を連想した

「残雪期の白い山並み全体から白馬を」という志村烏嶺の文章と一致するシーン。写真は栂池高原から白馬岳に至る稜線で、白馬乗鞍岳という馬の「鞍」にちなんだ山名があることも信憑性を高めている。

「代掻き馬」の黒々とした雪形から「白馬」を連想するのは難しいが、これを見れば一目稜線。昔の人はもっと素直に山を見ていたと考えるほうが自然だ。

地元の人間が納得できる説を図案に盛り込んだ白馬山案内人組合100周年記念ロゴ。

白馬岳を頭部と見立てると、青空を走る白馬の姿が見えてくる。

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PEAKS 編集部

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装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。

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