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夏の火照りと冷や奴「いろは食堂」(神奈川県秦野市)【グルメトラバース】#007

山に登り、麓の食を堪能することをライフワークとする、とある山岳ガイドの彷徨旅=グルメトラバース。今回はもはや親戚のような長い付き合いとなった、丹沢で店を営むご夫妻との思い出を振り返る。

冷えたビールとヤッコを目指して

丹沢の登山口、小田急線の渋沢駅に、もうかれこれ40年通い続けている食堂がある。その名は「いろは食堂」。大倉からのバスが着く渋沢駅北口ロータリーの少し先、駅から早足で1分足らずのところだ。

入口前にあるメニュー看板

いつ行ってもビシッとコックコートを身につけたマスターと、そして注文をテキパキとこなす女将のふたりが出迎えてくれる。メニューはあるにはあるが、ここはほぼ登山者の常連さんばかりが行く店で、椅子に腰掛けるとすぐに、まずは生ビールの大きさから聞かれる。

「大生?中生?大生の方が量が倍でお得だよ!」

お母さん(女将)のこのセリフは聞き過ぎるくらいに聞いていて、いつも笑いながらこちらは中生と答える。それは、大だとそんなに早く飲みきれないので、キンキンに冷えたやつを2杯、3杯と何度も注文して飲みたいからだ。お母さんが大を勧めるのは、まずは我らの懐を心配してくれているからだろうが、何度も何度もジョッキーを運ぶのもまた面倒だからってこともあるのだろう(ニヤリ)。

まずは中ジョッキで乾杯

わかるけど、やっばり中で飲みたいのだ。そして生ビールのジョッキがテーブルに置かれるのとほぼ同時に、冷や奴が置かれる。定番の地元「大山豆腐」だ。夏の暑いとき、山を下り着いて最初の一杯。そしてその冷えたビールと、交互に喉ごしを刺激する冷たいヤッコがたまらなく心地よいのだ。

火照った身体を冷ましてくれる大山豆腐の冷や奴

まずこの最初の一瞬を早く味わいたくて、そろそろ下り着くころになると、冷や奴が馬の鼻先にあるニンジンのようにぼんやりと頭上に浮かびだし、ターボがかかったように足が速くなる。

1年ぶりに店を訪ねてみると……

マスターの矢田孝徳(たかのり)さんは、とても温和で無口な人で、厨房でいつも優しい目でニコニコ笑いながら、ハイエナのような食べ方飲み方をする我らを見守ってくれていた。なのでもっぱら接客と会話はお母さん(女将)である清子(きよこ)さんの担当となる。

2021年に撮った仲のいいお父さん、お母さんのツーショット

店は当初、渋沢駅の南口をまっすぐ出たすぐ近くのタクシー会社の横、たしか十字路の角にあった。

まだまだそのころ若造だった私は、酒もあまり飲めなくて、もっぱら目的は下山後の定食かカツ丼だったが、その店はいまから55年前にできていたそうで、私が通い始めたのが40年ほど前。そして開業から30年たった年に、渋沢駅とその周辺の改築区画整理で、いまの北口ロータリー近くに新店舗として移設した。

移設にあたり登山者の方が設計をしてくれたそうで、下山した登山者が打ち上げで使いやすいように、奥に8人程度が輪になって集える個室が2部屋できた。山へと行き来するバス停がある改札方面に、店にやってくる登山者を出迎えられるように窓を作ってほしいとお願いしたのはお母さんだ。その移設店舗もすでに今年で25年になる。

昔はかなりの頻度で丹沢に通っていたが、最近はほかの山域に行く日々が続いていて少しごぶさたするようになっていた。それでもまだ年に1~2回は冷や奴を食べに寄っていて、昨年から1年ぶりに訪れた先日、いつものように「大生にするかい?」と声をかけてくれたお母さんが、安定の仕切りで頼もしく嬉しかった。

ところがだ、無口なマスターの姿が見えない。何度目かの”中生”の注文時に、「お父さんは元気?姿が見えないけど……」とお母さんに声をかけたら、しばしの沈黙の後に「今年の1月に亡くなった……」と、いつもの元気な声ではなく、小声で話してくれた。

倒れて3日目に病院で亡くなったそうで、「常連の人たちにも聞かれたら答えるけど、こっちからは話さないようにしている。だって楽しみで飲みに来ているのに、そんなの聞いたらいやでしょ?」と。いやなわけはない。

部屋の壁に掛かるお父さんの帽子

そして何杯目かの”中生”は献杯となった。

マスターが亡くなった後も、いつもと変わらず今宵もお母さんがひとりで登山者の帰りを待っている。「無事に下りてきたね。さあ、一杯飲んできな。大生がいい?」と、言いながら天気を心配しているのか、たまに外を見上げるお母さんがいる。

下山する登山者を心配してか、夕方になると空を見上げる回数も増えるお母さん

いまでも常連の登山者達が時にはひとりで、時には山岳会や職場の山仲間を集って貸し切り忘年会などもしているという。じつは体調が悪かったお父さんの代わりに、6年ほど前から料理はお母さんが作っていたそうだ。

それじゃあ昔よく食べたお父さんのタンメンはもう食べられないのか…と話すと、「大丈夫だよ。お父さんが細かいレシピを作っておいてくれたから私が作れる」とお母さんが言う。

マスターが作ってくれた思い出のタンメン。18年前(2004年)の写真

ただしここ数年の登山者減もあり、凝った料理はほとんど作らず、常連さんに食べさせる大皿料理がメインで、「なにか作ってほしかったら前日までに電話をしてね」とも言われた。それはそれで楽しそうだ。お父さんもニコニコ笑って見てくれているのだろう。

出てくる料理は毎回おまかせが基準。素朴だが、実家に帰ってきて味わうような“愛情盛り”だ。金目の煮付け、野ぜりや山わらびのおひたし、タコの味噌和え、そして大山豆腐の冷や奴など、ビールだけでなく、丹沢の地酒と合わせても美味しい。

各種お母さん手作りのアテ

ところでお母さんもすでに80歳オーバー。ワンオペで遅い時間まではやっていられない。早いと、下山する登山者達の足が切れる17時には店を閉め始めていることもあるので、もし17時より遅くなりそうだったら早めに電話をした方がいい。もし前日やそれより前に連絡すれば、定番メニュー以外の少し凝った料理も用意してくれるかもしれない。

お母さんはいつも元気

今夜の酒とアテ

 

丹沢の地酒「松みどり」 / 金目の煮付け

1825年創業、老舗の「中沢酒造」(神奈川県足柄上郡松田町)の「松みどり」は、丹沢山系の伏流水を使った清酒。金目の煮付けをアテに。

いろは食堂

神奈川県秦野市柳町1-17-8
TEL:0463-88-1826
定休日:木曜日(要電話)

初心者向きの沢も多い丹沢

丹沢といえば沢登り。とくに春から夏にかけては沢のベストシーズンだ。思いっきり飛沫を浴びて滝の直登をすれば、真夏でも天然クーラーの世界となる。とくに小田急線渋沢駅を拠点とした水無川流域は初心者向きの比較的手軽な沢が多い。

アプローチは渋沢駅からバスで大倉へ。大倉からは風の吊り橋を対岸に渡り、水無川沿いに走る戸川林道を1~1時間半歩くと、各沢登りの出合に達する。

水無川新茅ノ沢、F2の水流を直登している場面

 

 

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PROFILE

川名 匡

PEAKS / 山岳ガイド

川名 匡

「K&K山岳ガイド事務所」主宰。日本山岳ガイド協会認定山岳ガイドステージⅡ。 登山歴45年、ガイド歴25年のベテラン。神奈川県・横須賀を拠点に各地の山を飛び回る。 山業界きってのグルメ通であり、下山後のうまい酒とメシが欠かせない。

川名 匡の記事一覧

「K&K山岳ガイド事務所」主宰。日本山岳ガイド協会認定山岳ガイドステージⅡ。 登山歴45年、ガイド歴25年のベテラン。神奈川県・横須賀を拠点に各地の山を飛び回る。 山業界きってのグルメ通であり、下山後のうまい酒とメシが欠かせない。

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