南紀、楯ケ崎。「釣り師のテラスのルーフクラック」への旅へ~中編~|筆とまなざし#310
成瀬洋平
- 2023年01月04日
フリークライミングにおける芸術性と絵を描くことの共通点を考える。
明けましておめでとうございます。
新年が明けたけれど、年末からのお話をもう少し。楯ケ崎に向かう車中でずっと頭のなかをぐるぐる回っているテーマがあった。それはフリークライミングと絵を描くことの共通点について。いままでもやもやと考えていたことが、急に言葉になって浮かんできたのである。
これを考えるにはそもそも「フリークライミングとは?」から始めなければいけない。この部分はとても重要なことなのだが、とりあえずここでは「人間が生身の身体だけを使って岩を攀じ登る行為」としておこう。大切なのは、登る手段そのものに道具を用いない、岩を変形させて登りやすくしないという点。登れなければ自らの肉体と精神を鍛えて出直すのがしきたりだ。岩と人間との関係がよりフェアになるように人間の側に自らルールを用いた岩登り、それがフリークライミングである。
まず思ったのは、フリークライミングそのものにおける芸術性について。クライマーのムーブを見ていると、それ自体がダンスや舞踊のような身体芸術だと思えてくる。しかもそれは人間の恣意性だけでなく、人間と自然との接触面に生ずるパフォーマンス、岩を登るために必然的に生み出される動きである。クライマーと岩との共同作業と言ったら言い過ぎだろうか。そしてそのパフォーマンスは難しい課題であればあるほど繊細かつ強烈である。岩に触れる指先のどこに結晶を食い込ませ、どの程度の力をどのタイミングで込めるのか。微妙なボディーテンションと身体のポジション。少しでも位置やタイミングが崩れればすぐに岩から引き離されてしまう。クライマーと岩との綱渡りのような緊張関係のなかで繰り広げられるのがフリークライミングのパフォーマンスであり、地上から一度も落ちることなく(ロープにぶら下がることなく)終了点までたどり着いて初めて完成する。そのために、クライマーは自らの肉体と精神を鍛え、感覚を研ぎ澄ませる。トップクライマーには我々には感じられない岩からの刺激が感じられ、見られない景色が見えているのだと思う。
さらに考えるのは対象へのアプローチ方法における類似点について。釣り師のテラスのルーフクラックをトライしながら、ルーフの下に仰向けになってクラックを描いた。どこの窪みに手のどの部分をフィットさせてジャミングするか、どこにフットジャムを効かせてあまいシンハンドに耐えるのか。描きながら登っているときの皮膚感覚とバランスを追体験する。どの部分からどのような情報を得て、それをどのようにムーブあるいはスケッチブックに落とし込んでいくのか。それは別の風景でも同じで、たとえば、釣り師のテラスから見下ろす海の色をどんな絵の具で着色するかということである。絵描きは目の前に広がる風景から造形や色彩をもらう。自然から得られるひとつひとつの情報を自分の五感(あるいはそれ以外)を通して一枚のスケッチブックに描いていくことは、ひとつひとつのムーブを解析して一連のムーブを組み立てる行為と根本的には同じなのではないかと思う。
フリークライミングにおける芸術性について。新年を迎え、新しいテーマが沸々と身体のなかから湧き上がってくるのを感じている。けれども登れなければ机上の空論だ。もっと登り、描き、そして考えてみたい。コロナ禍で止まっていた時計の針がたしかに動き始めた。今年は本厄。禍いなんて蹴っ飛ばし、飛び出したいと思う。
最後に、世界中の人々が精一杯幸せに生きられる一年となりますように。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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