亡き友を思いながら白馬大雪渓を描く|筆とまなざし#378
成瀬洋平
- 2024年06月05日
絵筆のひと描きひと描きが南無阿弥陀仏である。
亡き友を思いながら描く絵は念仏である。白馬大雪渓の絵を描きながらそう思った。
7年前の4月下旬、友人が白馬大雪渓で雪崩に遭った。毎年その時期になると山仲間といっしょにご自宅を訪ねている。ご両親から大雪渓の絵を描いてほしいとご依頼されたのは、もう2年前のことである。しかしそのときの自分にはまだ描くことができなかった。なぜ描けなかったのかはわからない。要するに気持ちの問題だったのだが、そろそろ描けると思えたのは、今月の半ばになってのことだった。なにが整ったのかはわからないが、そのタイミングは不意に訪れたのだった。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人は「鍬の一振り一振りが南無阿弥陀仏」と説いたと、ずいぶん前に本で読んだ記憶があるのだが、かなり曖昧な記憶なので少し違っているかもしれない。親鸞が没したのち、弟子によって著された『歎異抄』。そのなかでもっとも有名な言葉が
「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」
だろう。善人とは自分の力で修行を行ない、善行を積むことができる人のこと。悪人とは罪人のことではなくて、日々煩悩に苛まれながらも修行などできない人々、他力に縋るしかない我々一般庶民のことである。
「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」とは「善人ですら往生できるのだから、悪人が往生できるのはいうまでもない」という意味で、煩悩を抱えた悪人こそ往生するにふさわしいと説いた。お寺で念仏を唱えられない農夫でも、鍬を一振りすることが念仏であり、往生を遂げられるというのである。
鍬の一振り一振りが南無阿弥陀仏ならば、絵筆のひと描きひと描きもまた南無阿弥陀仏である。だとすれば、描かれた絵は念仏の結晶のようなもの。忙しなくすぎ去る毎日のなかで、あるいはボタンやタッチパネルでの操作が当たり前になっている現代において、ひとつひとつの所作に思いを込めるということはおどろくほど少ない。大雪渓の絵を描き終えたとき、清々しく救われた気持ちになったのは、ほかならぬ自分自身だった。
SHARE