山小屋で働くことで再発見した山の魅力と人生観。黒部五郎小舎ですごした夏|PEAKS 2024年9月号(No.167)
PEAKS 編集部
- 2024年08月07日
いつか山で働いてみたい。昨夏、その願いを叶えるために北アルプスの秘境・黒部源流にある黒部五郎小舎へ飛び込んだ。
その場所に待っていたのは、人生を豊かにすごすヒントをくれる美しい原風景とすてきな仲間との出会いだった。
編集◉PEAKS編集部
文・写真◉平野美紀子
インタビュー記事は2024年9月号に掲載。Amazonでのご購入はこちら
絵本から飛び出したような静寂の世界で、穏やかな時をすごす。
7月の中旬。新穂高温泉登山口を発ってすでに3日目を迎えていた。系列の双六小屋で、わさび平小屋から入山をともにしたスタッフたちにしばしの別れを告げたあと、重い荷物を背負いながら歩くこと3時間ちょっと。ようやく黒部五郎小舎が見えてきた。登山歴はたかだか数年。せいぜい3〜4日程度しか山に滞在したことがないのに、ちゃんと山で暮らしながら働けるだろうか。
小屋に近づくにつれて湧いてきた緊張と不安を映し出すかのように、あたり一面は白いガスに覆われている。黒部五郎岳の姿はどこにも見えない。それでもいざ小屋に到着し、小屋番の石井さんが気さくに話しかけてくれたときには不安も消え、「これからどんな生活が待っているのだろう」と心のなかはわくわくする気持ちでいっぱいになった。
三俣蓮華岳と黒部五郎岳の鞍部に位置し、標高2350mの五郎平に佇む黒部五郎小舎。赤い三角屋根の建物を囲うように池塘や花畑が広がるようすは、絵本から飛び出してきたようなメルヘンな世界そのものだ。こちらを見守るようにどっしり構える黒部五郎岳のほか、北に薬師岳、南には笠ヶ岳も望むことができる。
到着してから数日後、初めて晴天下で目にした小屋からの景色にはほんとうに感動した。また代々スタッフの手によって大切に守られ、2005年にはリニューアルも行なわれた小屋の中も、温かみと清潔感にあふれていて居心地がいい。縦走路でしか訪れることのできない北アルプスの深部がゆえに人通りが少なく、小屋の周りはつねに静かで穏やかな時間が流れている。
ここでのわたしの仕事は、おもに厨房での調理だ。シフトが早番の場合は朝3時から一日が始まるので、山の朝は早いなとあらためて思う。日々眠気と闘ういっぽう、太陽のように煌々と輝く月や無数の星を見上げながら出勤するのは、なかなかロマンチックな体験でもあった。はやばやと身支度を整え、朝食の準備へ。朝の厨房は、早朝に発つお客さまを滞りなく送り出すため慌ただしく、ピリッとした緊張感が漂う。だからなのか、朝食を終えて厨房の横を通りゆく熊鈴の音や、時折こちらに元気よく向けられる「ごちそうさま! 行ってきます!」という声を聞くたびに、胸を撫で下ろしたものだ。
朝ごはんを食べ、小屋の中を隅々まで掃除したら、次は夕食の準備が待っている。厨房を切り盛りするのは、黒部五郎小舎で10年以上働くベテランスタッフの米沢さん・通称〝ごめちゃん〞だ。
野菜の切り方から味つけ、盛り方までていねいに指導してくれるので、決して料理が得意ではない私も安心して仕事に取り組めた。
ここへ来る前、山好きの友人らがみんな口を揃えて「黒部五郎小舎の手作りご飯が美味しい」と言っていた。たしかにそのとおりで、ごめちゃんが教えてくれる料理は素材を活かした体にやさしいものばかりで美味しく、そして少しのむだもない。たとえばお客さまから大好評の味噌汁にはポテトサラダで使うジャガイモの煮汁を入れていたり、捨てるはずのニンジンや長芋の皮を使ってまかないメニューを作ったり、そばの茹で汁を掃除に活用したりと、その工夫は枚挙にいとまがない。
当然、山では食料や資材が限られる。とくにこの年は、水不足が深刻で、どの小屋も水の確保に苦心していたし、小池新道の途中に流れる秩父沢の水が初めて涸れたという驚きの話も聞いた。目の前にあるものに感謝し、いかにむだなくいただくか。その工夫を厭わないごめちゃんの姿を見て、便利な生活に甘えきった自身の意識を見直したいと思うようになった。
仕事の合間の休憩時間は、至福のとき。休憩時間になると、小屋の周りのあちこちでスタッフが猫のように日向ぼっこをしはじめる。青空の下、ときにはみんなで談笑することもあれば、ヨガやダンス、瞑想を楽しむこともあった。
山の生活が生きることの本質を教えてくれた。
なにもせずただ景色を眺める時間はぜいたくそのもので、いつもなら目に留まらない空模様や季節の移ろいにも敏感になっていく。
私がもっとも印象的だったのは夕焼けだ。梅雨が明けた7月下旬は、例年と同じように午前中は晴れて、午後はスコールという天気が続いた。そしてその後は決まって、美しいグラデーションが空を彩るのだ。茜色に薄紅色、橙や黄金色と、ころころ変化する色彩と雲のアートが見たくて、空を見上げるのが楽しみになっていた。
ラジオが連日のように猛暑を報じているのが嘘のように、お盆が近づくと朝夕はぐっと冷え込むようになった。小屋周辺に群生するコバイケイソウが色づきはじめ、青々としていた夏の景色に秋の気配が漂いはじめる。
秋の訪れを知らせるオヤマリンドウの花もちらほら現れると、下山日が刻々と近づいていることを知らされているようで、感傷的な気分に浸ることもあった。ちなみにコバイケイソウは数年に一度咲く花として知られるが、どうやら2023年はハズレ年だったらしい。もしかすると、今年の春は白い花がいっせいに咲く姿を見ることができるかも?
休みをもらえた日は、天気が許す限り北アルプスの深部をわが庭のごとく歩きまわった。富山・長野・岐阜3県にまたがる三俣蓮華岳は気づけば5回も登っていたし、もちろん黒部五郎岳もお気に入り。地名である「黒部」と、岩がゴロゴロ転がる地帯・ゴーロに由来する「五郎」を組み合わせて名付けられた黒部五郎岳。黒五(クロゴ)と呼ぶ人が多いが、わたしは愛情を込めて五郎さんと呼んでいる。
北アルプス屈指といわれる大迫力のU字型カールでは川のせせらぎが響き、シナノキンバイやチングルマなどの高山植物が咲き誇る。ちょうどいいサイズの岩を見つけたら、ごろんと寝そべるのも気持ちいい。まるで楽園にいるような夢見心地にさせてくれるのが、五郎さんの魅力だ。
山頂に着くと、穂高連峰や後立山連峰など北アルプスの峰々が遠くまでよく見える。筆舌に尽くしがたい景色をうっとり眺めながら、登頂を果たしたほかの登山者と山の話に花を咲かせるのも幸せな時間。あまりの居心地のよさに、山頂に3〜4時間ほど滞在することもあった。それでも時間に追われず堪能できたのは、黒部五郎小舎で働くスタッフの特権だと思う。
日中はウソやホトトギスの鳴き声がこだまし、登山道では雷鳥が小首を傾げながらハイマツをついばむ。まん丸い目をしたオコジョは、岩のスキマからひょっこり顔をのぞかせては登山客を喜ばせるなどサービス精神旺盛だ。こうして黒部五郎小舎に来てからさまざまな景色や動植物と出合ったが、いっしょに働いたメンバー以上に素敵な出会いはなかった。
収容人数は約60名。いい意味でこぢんまりした黒部五郎小舎では、お客さまもスタッフ同士の距離も自然と近くなる。黒部五郎小舎で働くのは初めてという女性の同期6人とは、文字どおり四六時中生活をともにした。はじめは窮屈に感じないか心配だったが、これがまた合宿みたいで楽しい。仕事が終わり消灯までの時間、毎晩のように好きな音楽や政治、環境のこと、これからの人生について思い思いに話す時間が好きだった。
みんな年齢も生まれもバラバラだけど、共通するのは自由で既存のレールに縛られない生き方をしていること。たとえば春は畑で収穫し、夏は山に登り、冬は暖かい島に渡る。気の赴くまま旅するように暮らす。ひとつの場所に縛られ、心を擦り減らしながら働く以外の選択肢をもっていなかった私にとって、その生き方は新鮮で、目の前の靄がすっと晴れていくような感覚を覚えた。あのときみんなに出会えたことは、わたしの人生に必要なことだったのだといまでも思う。
山は不便かもしれない。それでも寝て食べて働いて笑って̶̶。シンプルな営みのなかで黒部の大自然や自分自身と対話し、生きることの本質に迫る山の生活は、じつは豊かさにあふれていると思う。心と体を健やかに、そして人生観も変えてくれたかけがえのない日々。いつかまたここで暮らしたい。そう願わずにはいられない魅力が黒部にはあるのだ。
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PEAKS 編集部
装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。
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