エッセイスト矢部華恵さんと
フォトグラファー網中健太さんが紡ぐストーリー。
山へ向かったり、ときに離れたり……
揺れ動きながらも山を思う女性の姿を描きます。
友人の麻由子に誘われ、夜の渋谷に繰り出す。
「このあいだのバーに行こうよ。彼、またいたりしてね」
まさか。ピアスをいじりながら、「いるわけないよ」 と私は笑って言った。
あのとき、彼はバーでひとり、呑んでいた。
夢かと思った。高校時代、私が神と崇めた人。ストレ ートの黒髪。白いTシャツの下で、肩がツンと尖っている。変わってない。ビジュアル系バンドのボーカル、そのものだ。私は、彼のCDを買っては、せっせとライブに通い詰めていたのだ。
思わず、隣に座っていた麻由子に「あの人……」と口走った。
「え、マジで! 話しかけてきなよ」
「いいよ」「何言ってんの、こんなチャンスないでしょっ」
麻由子は私を振り切って、彼のいるテーブルへ暴走し た。一緒にいいですか? と隣に座る彼女に圧倒されて、かすかに頷く彼。麻由子は無邪気に「早くこっちおいでよ」と私を手招きする。どうしよう。彼は、初対面が苦手なはず。音楽雑誌のインタビューにそう書いてあった。
「ずっとファンだったんです」と麻由子は私を指して、 勝手にしゃべり始める。
動けずに固まっていると、彼と目が合った。私は引き寄せられるように立ち上がり、テーブルに着く。
「僕の音楽、聞いてくれてたの?」
「アルバムは全部持っています。おかげで私はこれまで生きてこれました」
え、と目を見開く彼。
「あの、活動休止の発表があったときは、もう死にたくなって……」
だめだ、重過ぎる。なんでこんなこと言ってるんだ。頬が熱い。
「そっか。ありがたいなぁ」
彼はやさしく微笑んでくれた。
「休みの日とかって何してるの?」
「えっと、山登り、です」
「山? ……へぇ。なんかすごいね」
「山ガールってやつですよ」
麻由子がキャッと笑いながら入ってくる。
「そっか。森とか似合いそうだよね」
「森ガールみたいなかわいい系じゃないですよ」
また麻由子が入ってくる。私は思い切って口を開いた。
「あの、私、岩登りが好きで」
高校のころ、ロッククライミングを始めたんです。クライミングって、ロープをつけて登るんで、命綱はあるから危険じゃないんですよ。ヘルメットつけてるし。ビレイして降りるのとか、最初は怖いけど、不思議なもので、わりとすぐ慣れるんです。岩を蹴りながら、ポンポン体を弾ませて降りるんです。懸垂下降で降りられるようになると、もっと楽しいんですよ。見たことないですか? たまに消防士さんとかが訓練でやってる、あの降り方です。
気づいたら、ひとりでしゃべっていた。
彼は、あっけにとられたような、不思議そうな顔をしている。
また場違いな話をしてしまった。彼はバンド時代、ミュージックビデオのなかでは眼帯をしてメリーゴーランドの木馬に乗る世界観の人だった。アウトドアは、ここにはふさわしくない。
それから何を話したのか、よく覚えていない。
帰りに麻由子が「ふたりとも連絡先、交換しときなよ」と言い出した。私は「初対面なのに厚かましいよ」と(断られるのが怖くて)言った。でも彼は「いいですよ」とサラリと言ってくれた。夢なら醒めないで。どこかで聞いたようなセリフを、私は心のなかで呟いた。
翌日、彼から連絡がきた。
そして週末、私は高円寺のライブハウスへ行った。
ふわふわと舞い上がるような気持ちで、受付で自分の名前を告げ、担当者が関係者リストにチェックを入れ、 会場に通してくれた。
彼がステージに現れる。前と同じように、輝いている。
観客からは、黄色い声援が飛ぶ。私も叫びそうになるのを堪えて、静かに腕を組んで彼を見守る。私はもう、ただのファンじゃない。ソロライブに招待されたのだから。スマートに振る舞わないと。
家に帰って、せっせと彼に感想を送る。何度も書き直して、時間をかけて、言葉を選んで。
彼からは「ありがとう、うれしいよ」という返事がき た。ずっと夢の続きを見ているみたい。私は、彼の曲をイヤホンで聴きながら、何度もトーク画面を見返す。
週末の登山は、行かなくなった。代わりに彼の次のラ イブに行くための服を買ったり、昔のライブDVDを見返して過ごした。
ライブから、ひと月半。LINEの交換をしても、私は自分からメッセージを送ることはしなかった。またきっと次のライブに声をかけてもらえる。かけてほしい。本当は、私はかなり焦っていた。彼からの誘いを待っていた。でも、麻由子にはそんなことは言えない。
今夜、彼はまたあのバーにいるだろうか。
細い道を入り、麻由子が地下の階段を降りてバーの扉を開ける。私もそれに続いた。
カウンターでカクテルを注文し、前に彼が座っていたテーブルに視線をやる。
嘘でしょ? 麻由子と顔を見合わせる。そして彼女はまたしても暴走した。
「お久しぶりですっ」
テーブルへ無邪気に駆け寄る麻由子を、不思議そうに見上げる彼。
「私のことは覚えてないかも、ですけど、私の友だちはわかりますよね」
ニンマリ笑って振り向く麻由子。「やめてよ」と言う私に、麻由子が「いいから早く」と手招きする。私はまたいつかのように覚悟を決めて彼のテーブルに向かった。
「あ、このあいだは……」
彼が私を見る。吸い込まれるような目。やわらかい笑顔。このあいだここで会ったときと同じだ。彼はちょっと首を傾げて言った。
「だれ……だっけ?」
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PROFILE
ランドネ 編集部
自然と旅をキーワードに、自分らしいアウトドアの楽しみ方をお届けするメディア。登山やキャンプなど外遊びのノウハウやアイテムを紹介し、それらがもたらす魅力を提案する。
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