台風一過 晩夏の表銀座を歩く|中房温泉から燕岳、大天井岳を目指して
PEAKS 編集部
- 2020年09月13日
INDEX
初めて北アルプスに出かけるなら、中房温泉を起点とする表銀座がおすすめのルート。 北アルプス三大急登として知られる合戦尾根を登り燕岳から大天井岳を目指す。 表銀座と呼ばれる随一のトレイルを歩き、山小屋に泊まる2泊3日ののんびりした山旅。 台風一過の青空のもと、マーヤとマオが歩き始めた。
文◉伊藤俊明 Text by Toshiaki Ito
写真◉高橋賢勇 Photo by Kenyu Takahashi
イラスト◉西田真魚 Illustoration by Mao Nishida
取材日◉2013年9月17日〜19日
出典◉PEAKS 2014年9月号 No.58
北アルプスデビューは、ここがおすすめ
マーヤは友だちに誘われて山と出会った。
本業はシンガーソングライターだが、南アルプスの長衛小屋で働いていたこともある。
「あるとき喉の調子が悪くなって、歌えなくなっちゃったんです。歌えないなら行っちゃえって」
山小屋の仕事は楽しかった。いつのまにか喉も治っていた。
小屋で働くほどなのに、北アルプスには来たことがなかった。客として山小屋に泊まるのも今日が初めてだという。
「険しい場所だと思ってました」
マオも燕岳は初めてだ。山に登るのも1年ぶりのこと。デザイン事務所を辞めて、イラストレーターとして独立したのがちょうど1年前だった。
「行きたかったけど、金もヒマなかったんですよ」
合戦小屋では冷たくて甘〜いスイカが待っていた
旅は好きだった。デザイナーの仕事は忙しく、友人とも休みが合わなかったので自然と一人で出かけるようになった。山に登り始めたのは屋久島から。山も一人だ。人を頼れないぶん、鍛えられるという。剱にも登ったし、大キレットも歩いた。
編集部の池ちゃんは、普段はサーフィンを撮っているカメラマン、賢勇さんを連れて来た。
「どうせなら初めての人を集めたほうがおもしろいと思って」
僕も合戦尾根は初めて歩く。
天気は上々。台風18号は、きのう三陸沖へと抜けた。しばらくは安定した天気が続きそうだ。
合戦尾根は北アルプス三大急登の一つだというからさぞかし厳しい道だろうと覚悟してきたが、メジャーなルートだけあって歩きやすかった。急登と聞いて、もしも尻込みしている人がいるとしたら、ちょっともったいないと思う。
第一ベンチ、第二ベンチと休憩場所も適度に設けられ、順調に標高を稼いでゆく。
マーヤもマオも、賢勇さんも、初対面なのに気が合った。マオはマシンガンのようにギャグを飛ばす。滑り気味のそのギャグに、オヤジ3人でかわりばんこにつっこむ。マーヤはときどきそれに付き合いながら、気がつくといつも歌っていた。
富士見ベンチを過ぎると合戦小屋が見えてきた。ついさっき荷揚げ用のケーブルで頭の上を飛んで行ったスイカが、ほどよく冷えて待っている。食わない手はない。
イケメンの槍ヶ岳を従えて歩く、極上の稜線歩き
たっぶりの水気と濃厚な甘みが、体の隅々まで染み渡る。スイカって、こんなにうまかったっけ? 青空を背景に並んでかぶりつくマオとマーヤの姿は、まるで「夏休み」を絵に描いて額縁に入れたようだった。
あそこから歩いてきた。広大なスケールを一望する醍醐味
合戦沢ノ頭で槍の穂先が覗く。燕山荘の赤い屋根も見えてきた。
マオは疲れたようで、口数が少ない。無理もない。仕事はほとんど家にこもりきりで、おまけに昨日もあまり寝ていないという。さっきまでのハイテンションは、いつも一人でいることの反動だったのかもしれない。
今夜は燕山荘に泊まる。パックを下ろすと、その向こうに見事なパノラマが広がっていた。空から大きな手が伸びてきてその一部をきゅっと摘んだように、槍ヶ岳がとんがっている。
風化した花崗岩からなるという燕岳は白くて、まるで雪を被っているように見えた。傾く日と競うように山頂を目指す。疲れているのに、マオはスケッチの道具を忘れない。
どうにか日の入りに間に合った。稜線はまだ赤く輝いているが、太陽の光はもうその力を弱めて、光が届かなくなった空はやがて色をなくし、紫から濃紺へと見事なグラデーションを見せる。
いつもとは違うフィールドに、賢勇さんが興奮しているのがわかる。経験上、こういうときは、だいたいいい写真が撮れている。あとで選ぶのが大変そうだ。
マオはスケッチブックに向かい、マーヤが小さな声で歌う。一日の終わりの、心地良い一体感。山小屋へ帰る足取りは軽かった。
燕山荘は居心地がいい。清潔で、スタッフは気配りがよく、メシもうまい。ふとんだってフカフカだ。最後に起きたのはマーヤ。
「ぐっすりでした」
2日目は大天井岳直下の大天荘までの短い行程。常念小屋まで行き、翌日常念岳に登ってから山を下るというのが最初の案だったが、それよりも山の中でゆっくり過ごすことを選んだ。
「ここのケーキがうまいんすよ」という池ちゃんのアドバイスに素直に従い、コーヒーと一緒にいただく。登山客はすでに宿を発つ時間だが、こういう贅沢も悪くない、というか、たまにはやりたい。
朝からすっかりくつろいで、ゆるりと出発した。大天井岳までのこの稜線歩きが、この山旅のハイライトだ。これから歩く登山道を行く手に一望する。右手にずっと槍ヶ岳を眺めながら続くアップダウンの少ない道は、表銀座の名にふさわしい。槍ヶ岳は今日もハンサムだ。
快晴無風、眠気を催すほど平和な稜線の散歩。
マオは絶好調だ。昨日疲れていたのは、どうやらただの寝不足だったらしい。時折空中で指を動かす。なにかと聞けば、「こうすると風景が入ってくるんです」と答える。いかにもアーティストらしいが、知らずに見ているとちょっとおかしい人である。手つきがいやらしい。
血というのはあるのだろうかと、ふと思う。マオの父は日本画家で、マオが幼いころは家族でインドに暮らしていたそうだ。昨晩食事が終わったあとの食堂でさらさらと描いた絵には、たしかに見るものを惹き付ける力があった。
このページのカットは、そのときにマオが描いたものだ。「いつもより優しい雰囲気のものが描けた」と、後日送ってくれた。
クサリ場を下りると切り通し。右手の喜作新道は槍ヶ岳へと続く。いつか行きたいね、と話しながら左へ。大天荘へと登り返す。
大天荘に着くと、迷わず生ビール。空はどこまでも青く、空気は乾いている。喉もカラカラだ。目の前には絶景。こういう所で飲む生ビールがどんな味か、うまく書けない。
名物のカレーを食べて、まったり過ごす。
昼寝から目覚めると、池ちゃんが黙々と石を積んでいた。尖った石を2個3個。ボルダリングに飽きたクライマーが、河原の石で遊び始めたのがきっかけで、一部で流行っているらしい。
試しにやってみると、これがおもしろい。指先に意識を集中させて石を置くと、すっと安定する1点がある。たちまちみんなが夢中になり、不思議な石のタワーがいくつもできあがった。
楽しい時間はあっというまに過ぎる。まだ日は高いが、仕事がある池ちゃんはここで引き返すという。朝に燕山荘で別れてもよかったのに、気にかけて付き合ってくれたのだ。
池ちゃんを見送ると山頂へ向かう。といっても、小屋からわずか10分だ。
正面に槍ヶ岳を見る特等席に腰を下ろし、お茶を淹れる。
マオは常念岳に向かってスケッチブックを広げた。
マーヤはハミングを繰り返しては、コンパクトデジカメの動画モードでそれを録音している。曲を作っているらしい。どうやって作るのか聞いてみた。
「最初にメロディーが浮かんだり、そこに乗せる言葉にならない音を思いつくんです」
たとえば、なにげなく口ずさんだ「アイオイアー」が「ありがとう」になったりして、そこから広がって曲が生まれるのだという。
山頂には僕らだけしかいない。貸し切りだから歌ってよと水を向けると応えてくれた。
山の上のアカペラ。透明感がある力強い歌声が、澄んだ山の空気に溶けていく。夜が明けるように、悩みや迷いが消えていけばいいという願いを込めた歌だという。
「山にいると歌おうと思わなくても声が出ます。歌いたい」
そう言って歌い続ける。
「僕も一緒。頼まれて描くのと、描きたいと思って描くのはぜんぜん違うよね」とマオが答える。
シャッターは、賢勇さんの相づちだろう。
常念小屋まで行かず、ここで切り上げたのは正解だったと思う。
振り返ると今日歩いた登山道が見えた。遠くにぽつんと見える赤い屋根が燕山荘だ。今朝、あそこで日の出を迎えた。今日は一日を太陽とともに過ごした。
どーんと大きく構える常念岳はまた今度のお楽しみ
稜線の向こうに日が沈んだのを合図に小屋に戻る。さて、晩メシはなんだろう。
最終日も見事な晴天となった。今日はひたすら下るだけだ。結局レインウエアは使わずに済んだ。
登山道が右に大きく曲がり、槍ヶ岳が見えなくなると、いよいよ帰るのだと実感する。ハイマツの海を泳ぐように、細いトレイルを進む。
空気が澄んでいるのは、標高が高いせいばかりではないだろう。ところどころで葉が色づき始めている。夏が終わる。秋がもう、そこまで来ている。
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文◉伊藤俊明 Text by Toshiaki Ito
写真◉高橋賢勇 Photo by Kenyu Takahashi
イラスト◉西田真魚 Illustoration by Mao Nishida
取材日◉2013年9月17日〜19日
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PROFILE
PEAKS 編集部
装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。
装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。