八ヶ岳今昔話|山小屋の変遷をたどれば、歴史が見えてくる。
PEAKS 編集部
- 2021年04月08日
いまでは日本随一の人気山岳エリアであり、数多くの魅力的な山小屋が点在する八ヶ岳。では、その歴史とはどんなものだろうか? 硫黄岳山荘の先代主人、浦野栄作さんの話を中心に、八ヶ岳の変遷をたどってみる。
山小屋の変遷をたどれば、歴史が見えてくる。
第一次登山ブームで登山者が急増
硫黄岳の爆裂火口が象徴するように、火山の噴火活動によって形作られた部分が多い八ヶ岳。八ヶ岳の西側に位置する諏訪地方には、「八ヶ岳と富士山が争い、高さを比較したところ、富士山のほうが低かった。そのため怒った富士山が八ヶ岳を蹴飛ばして、八ヶ岳は8つに裂けた」という言い伝えが残るほどだ。
「八ヶ岳」という名前については、江戸時代に編纂された地誌『甲斐国志』などに「八ヶ嶽」「八嶽」といった言葉が登場するが、8つの山からなる連峰ということを由来とする説がある。
では8つの峰とは、具体的にはどの山を指すのだろうか。深田久弥の『日本百名山』においては、西岳、編笠山、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、峰ノ松目が八峰と称されていると紹介しているが、現在においては峰ノ松目を除き、天狗岳を入れて八峰とすることが一般的だ。
この八ヶ岳も、富士山や御嶽山のように信仰登山の聖地として人々に知られていた。江戸時代に山岳信仰が広まり、集団で登拝する講が作られ、八ヶ岳の主峰・赤岳も次第に登られるようになる。
南八ヶ岳の権現岳、阿弥陀岳など、いかにもという山名からも、当時のようすがうかがえる。
一般的な登山者がこの八ヶ岳に登り始めたのは、明治時代中期~後期から。自治体によって道標などが整備され、赤岳石室(現在の赤岳天望荘の位置)などの山小屋も建ち、昭和に入るとさらに登山者は増加。
しかし、第二次世界大戦の勃発により、山を訪れる人は減っていった。
八ヶ岳に再び登山者が増え始めたのは1950年代に入ってから。
日本山岳会隊によるマナスル初登頂などを経て第一次登山ブームが沸き起こり、登山者が急増。
’50年代には硫黄岳石室(現在の硫黄岳山荘)、黒百合ヒュッテなどの営業も始まった。
のちに硫黄岳石室の二代目主人となる浦野栄作さんは、このころ小屋の仕事に携わるようになる。
浦野さんの話をもとに、当時の山のようすを紹介しよう。
変革をもたらしたヘリコプター荷揚げ
当時、夏にはたくさんの登山者で山はにぎわっていたそうだが、それ以外の時期は社会状況的に休暇を取るのが難しかったため、登山者は多くなかったという。
そのため現在のようには小屋の営業期間も長くなく、6月に山に入って夏山シーズンだけ小屋を営業し、9月初めには小屋を閉めていた。だが、昭和30年代に入るとゴールデンウィークをはじめ、春、秋の連休に山を訪れる人が増え、営業期間も長くなっていった。
当時は小屋が食事を用意するのでなく、登山者が生米やおかずを持参し、小屋で米を炊いてもらっていた。小屋では味噌汁、漬物だけを提供していたそうだ。電気に関しても稜線上にある小屋には発電機がなく、灯りは灯油のランプ、食事は薪を使ったかまど、暖房は薪ストーブなどを使っていた。
使用する薪は枯れたシラビソやハイマツなどで、どれくらいの量を使ったかを地元の営林署に申請し、その分の料金を支払うシステムだったという。
小屋の布団や毛布の数は少なく、稜線の小屋はどこも狭かったため、混雑時には通路で寝る宿泊者もいた。いまのような食堂もなかったので、食事を取る場所と寝る場所も同じだったそうだ。
「それでも文句を言う登山者はまったくいませんでした。そのころは、お客さんのほうが『小屋に泊めてください』という時代だったんですよね」と浦野さんは語る。
ヘリコプターによる荷揚げが、小屋に変革をもたらした。
山へのアプローチ方法もいまとはだいぶ異なる。当時は夜行列車を利用して登山口に向かう登山者が多かったので、硫黄岳の場合、稲子湯から登ってくるのが一般的だった。
小海線の松原湖駅からバスで稲子湯へ行き、本沢温泉、夏沢峠を経由して石室に宿泊。翌日は赤岳へ登り、県界尾根を下って野辺山駅へ向かうか、真教寺尾根で清里駅へと下っていったという。
「小屋を出発して赤岳から南へ縦走し、小淵沢駅まで一日で歩ききる登山者もいました。当時は、全体的に体力があり、タフな人が多かったんですよね」
当時、山小屋への荷揚げはやはり歩荷が中心だった。だが、’60年代に入ると、北アルプスでヘリコプターを使った荷揚げが始まる。
東京オリンピックが開催された’64年には、硫黄岳石室、赤岳石室、赤岳山頂小屋(現在の赤岳頂上山荘)など数軒の山小屋が協同し、八ヶ岳で初めてとなるヘリコプターによる荷揚げが行なわれた。
それにより、大型の資材、機材なども山の上に揚げられるようになり、山小屋の設備も次第に変わっていったという。
電気が使えるようになり、いまの小屋のスタイルに
硫黄岳石室では’65年に実験的に発電機の使用をスタート。それまでは湧水を汲んで人が担ぎ上げていたが、ポンプとホースと使い、湧水を小屋に引くようになった。
これにより、食事の提供も開始。
当時、夕食にはカレーを出していたが、硫黄岳石室ではおかわりもできるようにしていた。なお、当時はどの小屋もメニューはカレーだったそうだ。
電気が使えるようになったことで、灯りは電灯に、食事も小屋が提供するという、現在の山小屋の営業スタイルへと変化を遂げた。
’70年代に入ると浦野さんは根石山荘(現在の根石岳山荘)も運営するようになり、’98年には夏沢鉱泉の経営も引き継いだ。夏沢鉱泉では浄化槽を用いた循環式の水洗トイレシステムを導入。
「山荘」へと名前が変わった硫黄岳山荘は稜線で環境や条件も厳しかったが、2002年にいち早く合併浄化槽を導入し、トイレを水洗化した。
小屋は現在、浦野さんの長男である岳孝さんが三代目主人として受け継ぎ、現在も環境に優しく、さらに利用者にとって快適な小屋運営に取り組んでいる。
もともと硫黄岳山荘、根石岳山荘は冬期は休業していたが、年越しを山ですごしたいという登山者のニーズに応えるように、現在、根石岳山荘は年末年始、さらに、その後も山を訪れる登山者のため、3月までの毎週土曜日は営業日としている。
いまとなっては稜線の小屋であっても、下界と変わらないような快適な環境ですごせることが当たり前のように感じられるが、それもこれも浦野さんのような人が、登山者のことを想って苦労を重ねた結果。
当然のように目の前にあるものに対しても、少し立ち止まって思いをめぐらせてみれば、そこから人の温もりや想いが感じられるかもしれない。
浦野栄作さん
1932年、長野県の旧湖東村(現在の茅野市)生まれ。1959年に硫黄岳石室の二代目主人となり、のちに根石山荘と夏沢鉱泉の経営にも携わる。現在は家の畑仕事に精を出す日々。
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- CREDIT :
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文◉大武 仁 Text by Jin Otake
取材協力◉硫黄岳山荘
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PROFILE
PEAKS 編集部
装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。
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