HARIMAYA/KANAGURI NOVA(ハリマヤ/カナグリ ノバ)1982|ランニングシューズの礎を築いた“名作”たち
RUNNING style 編集部
- 2020年02月02日
上級ランナーから高い支持を獲得したブランド
機能性の徹底追求で、レースでの着用率が高かった!
いまでこそ日本のスポーツシューズブランドといえば、アシックスとミズノくらいしか思い浮かばないかもしれないが、かつては数多くのブランドが存在していた。サッカースパイクで知られたヤスダ(のちにクリックス ヤスダに改名)、サッカートレーニングシューズの名作「コーチャー」で知られたモンブラン、小・中学生のバレーボールやバスケットボールシューズで一定のシェアを確保していたコーヨー ベアー、大学生の体育会バスケットボールプレーヤーから信頼の厚かったベアーをはじめとしたブランドが、前述の2大ブランド以外に、日本のスポーツ市場で健闘していたのである。そしてランニングの分野でも、2ブランドに対抗していたスモールブランドが存在した。それがハリマヤである。
ハリマヤは東京高等師範学校の学生であった金栗四三と、東京の大塚に店を構えた足袋屋「ハリマヤ」の主人である黒坂辛作の出会いから誕生した、マラソン足袋を起源とするランニングシューズブランド。1903年、兵庫県から上京した黒坂辛作は、大塚に足袋店の「ハリマヤ」を創業。店の裏手には東京高等師範学校があり、金栗四三は1910年にそこに入学した学生の一人だった。校内長距離走で優秀な成績を収めた彼は、翌年にストックホルム五輪の代表選考40kmレースに参加することとなった。金栗はハリマヤで購入した室内用の足袋でこのレースを走り、悪天候の影響もあって足袋は途中で壊れたものの、持ち前の持久力の高さを発揮。2時間32分45秒という、当時の世界記録を大幅に更新する好記録で優勝し、見事ストックホルム五輪の出場権を獲得した。そして彼は、自らの経験をもとに、マラソンのための機能性を付加した足袋の開発をハリマヤの黒坂辛作に依頼する。
金栗四三とハリマヤ。いざ、ストックホルムオリンピックへ
1912年、金栗は耐久性を向上させるために靴底に布を重ねるなど、走るための構造をプラスした足袋を持参して、スウェーデンのストックホルムへと乗り込んだ。当地では珍しい35度を超える高温や体調不良もあり、途中棄権という残念な結果となったが、帰国後も黒坂とともに、より機能性に優れたマラソン用足袋の開発に邁進する。その機能性の高さは、1928年のアムステルダム五輪で4位と6位に入賞した選手が、1936年のベルリン五輪で金メダルと銅メダルを獲得した選手が、彼らの開発したマラソン足袋を履いていたことによって証明された。
そんなハリマヤを筆者が知ったのは、1980年のこと。中学二年生のときに同じクラスの陸上部員が履いていたことがきっかけだ。この頃すでに、当時はMラインだったミズノとオニツカタイガーが圧倒的なシェアを占めていたので、彼のシューズはかなり目立っていたのだ。そして高校に進学し、やはり同じクラスの友人が「試合用のシューズで軽いんだよ!」と自慢していたのが、ハリマヤの「カナグリ ノバ」であった。片足140gという超軽量シューズであり、たまたま彼のサイズが25.5cmで自分と同じだったので足入れさせてもらったが、足裏が窪み、アッパー全体が足を適度に包み込み、革の手袋をはめたときのようなフィット感で、それまで履いたどのスポーツシューズよりも履き心地がよかったことをいまも覚えている。
column
足袋製造からスポーツシューズへの参入という点で注目されるのは、杵屋の「無敵」。足袋製造で長年培ったフィット性の高さを巧みに取り入れている。
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ランニング初心者から、サブ4を目指す中級者まで楽しめるランニング専門マガジン。トレーニングやアイテムの紹介、トレイルラン、イベントまでさまざまな情報をお届けする。
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