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【備中高松城~天王山】ロードバイクで再現する秀吉「中国大返し」|今年行ってみたい自転車旅

編集部がおすすめする「今年行ってみたい自転車旅」をピックアップ! 今回は歴史好きの副編・山口が行く「備中高松城~天王山」の旅。本能寺の変のあと、毛利攻めのため岡山県にある「備中高松」にいた秀吉が、短期間のうちに京都府山崎にある天王山までの200kmを駆け抜けたという「中国大返し」のルートを自転車で旅してみた。

秀吉の逸話「中国大返し」に自転車で挑戦してみたい!

「山崎の合戦」は現在の京都府乙訓大山崎町で行われ、当時はまだ羽柴姓だった豊臣秀吉が、本能寺の変のあとに明智光秀を打ち破り、天下統一への第一歩を進んだとされる戦いだ。そこで秀吉が、当時毛利勢と交戦中だった岡山から、200kmの道のりをたった10日で京都まで戻り、明智光秀を驚かしたというのが、「中国大返し」と呼ばれる秀吉の逸話だ。

そして、その中国大返しのあと、秀吉が陣を構えたのが天王山だ。山口は2005年当時、バイシクルクラブで疋田 智さん(自転車ツーキニスト)が連載していた「日本史の旅は自転車に限る」の取材に同行し、天王山の山頂へ登ったが、そのときから「いつか自転車で中国大返しをやってみたい」と思っていたのだ。

そして、ついに時は来た。
広島でのロードレースに出かける機会があり、チームメイトのクルマで岡山インターまで送ってもらい、そこから自転車に乗りはじめ、目指したのが備中高松城だ。
ここから中国大返しはスタートする。

天王山ハイキングコースで見かけた陶板。原画は日本画家の岩井弘作さんが描いたもので堺屋太一の文章が書かれていた。明智は左に、秀吉は左に両陣営が描かれている。光秀の援軍となるはずだった筒井順慶を、光秀が待ったが来なかったという逸話から、日和見の代名詞となった「洞ヶ峠」。天下分けめの合戦の代名詞となった「天王山」。ともに有名な言葉だ

諸説あるが、秀吉が毛利勢の備中高松城を水攻めにしていたところ、毛利勢に向けた光秀方の使者を秀吉方が捕え、主君信長の死を秀吉は知る。そして急きょ、京都へ戻るために毛利方と和睦し、200kmの進軍を開始したのだ。
備中高松城のまわりは、今となっては平和な田園地帯で、大きな最上稲荷の鳥居がドーンと立っている。その近くには今でも秀吉が築いたといわれる堤の跡が残っており、水攻めが実際にあったことを感じさせる。

城には水攻め中の水の高さを示す看板があったが、本丸の高さ7mに対して、現存する蛙ヶ鼻築堤の高さが8.4mというから、城は水びたしだったことがわかる。

秀吉はここから岡山市北区にある沼城を経て姫路へ向かい、態勢を整えたといわれているが、自分はこの日、岡山に泊まることにした。

秀吉による水攻めを説明する説明板。3000mにもおよぶ堤を12日間で作り、水攻めにしたというから驚きの早さだ
備中高松城水攻めのときの布陣。毛利方の清水宗治の守る高松城のまわりは水攻めの水色で塗られていた。まずは岡山から京へ戻らねば!
城跡付近はいまでも沼地となっている
備中高松城跡近くにある、最上稲荷の高さ27mの鳥居。その下に小さく自分の姿が見えるだろうか?

 

まずは船坂峠を越えて姫路、明石、そして天王山へ

翌日、200kmチャレンジだと言いつつ岡山城などに立ち寄っていたら、スタートが遅れてしまった。ようやく9時に沼城をあとにして、まずは姫路城を目指して国道2号を走ることにした。

ところが、このルートの最高地点となる船坂峠(標高171m)までは、上り調子のルートでなかなかしんどい。秀吉方もこの峠には、さぞかし苦労したことであろう。
かくいう自分もレースで100km走った翌日ということもあり、腰がバキバキなのだ。途中、名刀で知られる備前長船や閑谷学校など歴史的名所の前を通るも時間がない。先へ行くしかない。

岡山市街を抜けると新幹線の線路近くにある沼城跡。秀吉は高松城攻めの後に立ち寄った。いまとなっては、田んぼの中にある丘だが、岡山城ができるまでは宇喜多氏の居城だった
岡山と兵庫の県境にある船坂峠。400mほどのトンネルでこの日は交通量も少なかったが、国道2号だけにトラックが抜けていく
姫路の手前、たつのではバイパスは自転車通行禁止なので、旧道へ進んだ

なんとか兵庫県に入り、ようやく姫路に到着したのは13時。寄り道をしたこともあり、なかなか遅い。観光地、姫路城の入り口のベンチに甲冑が置いてあるのかと思って記念撮影したら、中には人が……。「ものすごく暑いです」とのこと。甲冑を着ての進軍なんて、無理だということを悟った。
秀吉は自分の拠点だった姫路城で家臣たちにありったけの兵糧をふるまったというが、自分はコンビニで買ったサンドイッチを補給するだけだった。

国宝姫路城は人気の観光スポット。甲冑姿を見かけたので、記念に撮影させていただいた。どうやら一般にも有料で甲冑を貸し出しているらしい。当時の姫路城はもっと簡単なものだったというが、秀吉も岡山から京都へ向かう途中、姫路城に立ち寄った

このあと秀吉の足跡を追いかけるべく、明石を目指す。姫路を過ぎると道は平たんで、さらに追い風も味方してくれ、ペースも回復。
ようやく15時過ぎに明石城跡にたどり着いた。
残り80kmだからなんとかなるなと思ったので、明石名物の玉子焼(明石焼)を買った。明石大橋を見ながら大蔵海岸公園で、できたての玉子焼20個にだしをつけ、熱いのを我慢しながらほうばる。いやーうまかった。これで生き返る。
ちなみに秀吉方の一部は、対岸の淡路島の洲本にも攻め入ったという。

明石焼、地元では玉子焼と呼ぶことを初めて知った。タコは入っているが粉っぽさはなく、出汁で食べる
明石城の旗に書かれていたことが「へー」だったのでつい撮影。この明石城ができたのは江戸時代になってからだ
今回、初めて海を見たのがこの明石海峡。秀吉方は陸路と同時に、別動隊は水路でも京都を目指した。その一部は海の向こうの淡路島、洲本にいた明智方の菅平平右衛門尉を攻めた

明石を過ぎると大都会神戸。あとは日没との戦いだ。国道2号をひた走る。尼崎、富田を経て天王山へと向かえばいいのだが、尼崎市に入る手前の武庫川の上で日没を迎えた。

ここからペースが落ちる。なぜかといえば、道がわかりにくいからだ。ということで江坂付近を通過して、ようやく京都線沿いに延びる府道14号から国道171号で、高槻にたどり着くと20時。

東京行きの終電の時間をにらみつつ、あと10km弱で京都府というところで、この日は断念することにした。もう少し、朝早く出るべきだったという後悔は言うまでもない。とはいえ約200kmのルートを走破することができ、秀吉も立ち寄った高槻までたどり着いたので、当初の目標はクリアしたと満足。

そういえば疋田さんと天王山に登ったあとも、明智光秀最後の地、伏見の小栗栖を暗いなか走ったことを思い出した。

神戸では国道2号をひらすら東に向けて走る。休日なので交通量も少ない。神戸まで来ると、ようやくロードバイクに乗る人を見かけるようになった
芦屋から武庫川を国道2号で渡ると尼崎。尼崎を過ぎれば大阪だ。このあと国道2号を外れ、道に迷ってしまい、この日は高槻までとなった

備中高松城~高槻のルート紹介

スケジュールの都合上、1日での走破に挑戦したが、余裕があるなら姫路あたりで1泊して、ゆっくり観光を楽しみながら走ってみてもいいだろう。

 

※この記事はBiCYCLE CLUB別冊「ロードバイク一人旅入門」からの転載であり、記載の内容は誌面掲載時のままとなっております。

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山口

Bicycle Club / 編集長

山口

バイシクルクラブ編集長。かつてはマウンテンサイクリングin乗鞍で入賞。ロード、シクロクロスで日本選手権出場経験をもつ。47歳を迎えた現在ではレースだけではなく、サイクリングを楽しむためために必要な走行環境やサイクルツーリズムなどの環境整備などにも取り組んでいる。

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