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一枚の写真から小槍を目指す、真夏の旅

「小槍」と聞いて多くの人が思い浮かべるのはこの一節だろう。

「アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを さあ 踊りましょう」

小槍は槍ヶ岳頂上のすぐ西側にそびえる高さ100mほどの岩峰だ。標高は3030m。まさにアルプス一万尺である。80年以上前に撮られた一枚のモノクロ写真に導かれ、2019年のお盆に私たちは小槍へと向かった。

文・写真・イラスト◉成瀬洋平 Text & Photo & Illustration by Yohei Naruse

当時の彼らに突き動かされて足取りをたどるように「小槍登攀」。

穂苅三寿雄の「小槍登攀」。当時の登攀具や登攀技術で果敢にアルプスの岩壁に挑む人々の姿にはただただ感服するのみである。(写真:穂苅三寿雄)

親戚のおじさんの形見として、古いウッドシャフトのピッケルやレビュファの『雪と岩』とともに譲り受けたのは、1998年秋に発行された『別冊太陽』だった。特集のテーマは「人はなぜ山に登るのか日本山岳人物誌」。小島烏水など近代登山のパイオニアから吉田博などの山岳画家までが紹介されており、私の大切な資料となっている。

内容はもとより、私の目が奪われたのは表紙のモノクロ写真だった。切り立った迫力のある岩峰。よく見ると岩肌にへばりつく人の姿が見える。頭には日本手ぬぐいを巻き、白いシャツの上にベストを着た出立ち。腰にロープを結んだ、いままさに登攀中の男の上で、そのロープを手で握りしめる男。そして下のテラスではもうひとりの男がようすを伺うようにクライマーを見上げている。当然、現在のようなビレイ器やハーネス、クライミングシューズはなく、「ザイル」は麻製だろう。写真のタイトルは「小槍登攀」。昭和10年ごろに撮られたようで、撮影者には「穂苅三寿雄」と書かれていた。

穂苅三寿雄は槍ヶ岳山荘の創設者である。明治24年に現在の松本市で生まれた。明治40年に初めて上高地を訪れ、穂高の魅力に取り憑かれる。大正4年7月には中房から大天井、中山乗越、槍沢を経て初めて槍ヶ岳に登った。上高地から槍ヶ岳への登山道が開設される1年前である。

大正6年にはババ平に北アルプスで2番目となる営業小屋、槍沢小屋を建設。そして大正15年に現在の槍ヶ岳山荘となる槍ヶ岳肩の小屋を建設した。当時はすでに多くの人々が北アルプスに赴いていた。吉田博が連作版画の代表作「日本アルプス十二題」を発表したのも大正15年である。

ガレガレのアプローチは意外と悪い。切り通しを越えると取付はすぐだった。

穂苅は山小屋経営者のほかに、槍ヶ岳の開祖・播隆上人の研究家、そして山岳写真家としての顔を持っていた。北アルプスに通うようになって間もなく小型カメラで写真撮影を始める。肩の小屋を建設した年の4月には、まだ雪深い槍ヶ岳、三俣蓮華岳、烏帽子岳へと縦走する雪中撮影に出かけており、その登山スキルと山岳写真に対する情熱が窺える。

穂苅の写真には登山者が写っていることが多い。凛と佇むその姿には物語の香りが漂っている。「小槍登攀」は小屋仕事の合間に撮影された一枚だろうか。よく晴れた夏空の下で岩登りに興じる人々の高揚感と緊張感……彼らの心模様を想像せずにはいられない。

この写真を見てから小槍に登ってみたいと思うようになった。けれども、わざわざ2ピッチの岩登りのためにクライミングギアを背負って槍沢を登るのが億劫に思え、数年の歳月がすぎていた。

2019年のお盆休み。妻が山に行きたいというので候補を検討していたとき、ふと思いついたのが小槍登攀だった。『日本登山大系』を開くと、小槍は千丈沢から突き上げる槍ヶ岳西稜(小槍尾根)上にあり、西稜をたどって曽孫槍、孫槍、そして大槍(槍ヶ岳)へと登れることがわかった。お盆といえども一般道を使わなければ渋滞を回避できるだろうし、西稜を登ることで懸垂と歩きを含めて10ピッチほどのクライミングになる。一万尺の雲上で爽快な岩登りが楽しめそうだと思った。

小槍の頂上から懸垂で一気にコルへ下る。岩の形は昔と変わらない。

沢渡駐車場に空きはなく、かろうじて平湯に車を停められた。出発が遅くなったり、あまりの暑さに疲弊して初日はババ平までとした。急ぐ旅ではない。翌日は日の出とともに出発。できるだけ涼しい時間に歩きたい。槍ヶ岳山荘のテント場は混みそうなので殺生ヒュッテにテントを張った。ひと休みしてからクライミングギアをサブパックに詰め、小槍へ向かった。この時間になると超人気の槍ヶ岳もそれほど混雑していない。

穂苅の山仲間だった土橋荘三らによって小槍が初登されたのは大正11年のことだった。ちなみに、日本アルピニズムを牽引した藤木九三が岩登りを目的とした「ロック・クライミング・クラブ(RCC)」を設立したのが大正13年、日本初のクライミング技術書『岩登り術』を著したのがその翌年だから、小槍の初登はそれに先駆けて行なわれた先鋭的なクライミングだったといえる。槍ヶ岳肩の小屋が建設されると場所の良さも手伝って、小槍付近は一時期クライミングゲレンデとなっていたらしい。かつてはさまざまなラインから登られていたが『日本登山大系』で紹介されているのは南面の「右ルート」「中央ルート」「左ルート」の3本。ルート図を見ると、穂苅の写真にあるのは「右ルート」だとわかる。もっとも登りやすいラインで初登ルートでもある。ここから登るとルートスケールは40mほど。

眼下に小槍、その手前に曽孫槍を見下ろしながら孫槍の快適なスラブを登る。硫黄尾根の赤茶けた山肌と千丈沢の緑が美しい。

槍ヶ岳山荘の横に回るとようやく小槍を見ることができた。斜め右に頭を傾げるようにそそり立つ灰色の岩峰。その頂上を太陽の光がわずかに照らし始めていた。取付までのアプローチは2通りある。ひとつは小屋の横からほぼ水平にバンドをトラバースするルート。もうひとつが一般道を少し登ったところからガレ場を下ってバンドに合流するルート。小屋の横から水平トラバースを覗くとなかなかに険しそうである。頂上へ向かう登山者に混じって一般道を少し登り、下に見えるバンドを目指してガレガレの斜面を下った。岩雪崩を起こさないように慎重に足を進め、切り通しのバンドをトラバースすると小槍の基部に到着した。

80年のときを越えて一万尺のアルプスで。まさに雲上の爽快クライミング。

「中央ルート」と「左ルート」は見るからに脆そうである。迷わず「右ルート」を登ることにしてロープを結び、クライミングシューズに履き替えて登り始めた。簡単なクライミングでコルに達し、さらにロープを延ばして途中のテラスでピッチを切った。

テラスから左へ少しトラバースしてクラック沿いに登ると、思いのほか広い小槍の頂上にたどり着いた。一般道からほんの少し外れただけなのに、さっきまでの賑わいはすっかり聞こえなくなり、あたりには標高3000mの静寂が広がっていた。真正面にそびえる大槍の頂上には人影が小さく見え、話し声がおぼろげに聞こえる。ここから眺める大槍は、なんというか、ボロボロの岩が積み重なった大きな岩の塊だった。無機質な風景である。これから登る予定の西稜を目でたどる。曽孫槍は、冷蔵庫よりも大きな岩がいまにも落ちそうなほど脆く見える。どのあたりを登るのだろう?その先の小さなピナクルが孫槍だとわかる。頂上はそこからわずかである。

コルまで懸垂し、曽孫槍を登る。見た目どおり浮き石が多い。ロープが当たっただけで落石を起こしそうである。うかつにプロテクションをセットすれば岩ごと吹っ飛んでしまうだろう。岩の脆ささえ気をつければ落ちる箇所ではない。そういい聞かせて細心の注意を払いながら登った。孫槍からは岩が硬くなり、傾斜の緩いスラブをぐいぐい登ることができた。振り返ると背後に小槍が大きくそびえ立っていた。私たち以外に人っこひとりいない。まさに雲上の爽快クライミングである。2ピッチで鋭く尖った孫槍の頂上に到着した。

15mほどの懸垂を経ていよいよ大槍の取り付きへ。小尾根を挟んだすぐ右側が一般ルートとなっており、人々の話し声が聞こえると一気にお盆の槍ヶ岳へと引き戻された。快適な岩稜をたどると、多くの人で賑わう大槍の頂上だった。

穂苅の著書にこんな一節がある。

「人間が自ら生きて行くのか……追われて仕方なしに生きて行くのか。私には断言は出来ないが、それを超越して永劫に聳立しているのはこの山ではあるまいか」(『槍ヶ岳黎明 私の大正登山紀行』)

80年以上のときを経て社会は大きく変わった。けれど、槍ヶ岳にとって80年などほんの一瞬にすぎないのだろう。それはきっと人間の心も同じで、「小槍登攀」の彼らも私たちと同じように、一万尺のアルプスで爽快なクライミングを楽しんでいたに違いない。

小槍の頂上から大槍を望む。西面には見るからに脆い岩が堆積している。西稜は右側の岩稜で、スカイラインのピナクルが孫槍である。

成瀬洋平

岐阜県在住のライター、イラストレーター。自作したアトリエ小屋で絵の制作に励む傍ら、クライミングインストラクターとして「成瀬クライミングスクール」を主宰。

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