競輪とロードと2つの競技で活躍するオリンピアン窪木一茂【El PROTAGONISTA】
管洋介
- 2022年04月10日
全日本選手権ロード優勝、リオ五輪出場、全日本選手権6種目優勝など
長期にわたり輝かしいリザルトを残してきた窪木一茂。
2021年、競輪選手としてデビューした後も
Jプロツアーで優勝するなどその才能は輝き続けている。
今回は日本が誇るトップレーサー窪木一茂の挫折と栄光を追う。
あの日本代表のジャージが着たい!チームブリヂストンサイクリング 窪木一茂
プロスポーツ選手への憧れは小学生から
福島県の中央、阿武隈山麓の石川郡古殿町で育った窪木。スポーツに初めて本格的に打ち込んだのは小学3年生で始めたサッカーだった。地域のクラブに所属し県大会で優勝するなど力をつけた。
「大きな試合で東京に遠征したときに、浦和レッズや横浜F・マリノスのジュニアやユースの選手たちの身なりや雰囲気を見て『カッケェなぁ……』と強い憧れをもちました。僕が育ったのは小さな田舎町ですから」
しかし、進学した地元の中学にはサッカー部がなく、バスケ部へ。それでも練習に打ち込み東北大会まで出場。だが全国には届かなかった。そして高校進学時にスポーツの強豪校、隣町の学法石川高校を志したことが窪木の運命を変えた。
ゴルフ、自転車、野球、ハンドボールが強い高校。「今思えばゴルフを選ぶべきだったなぁ……」と笑いながら当時を振り返る窪木。しかし、入学式に日本代表ジャージを着て自転車部へ勧誘する先輩の姿を目にすると窪木の心は一気に動いた。
「あのサッカーの日本代表と同じ、日の丸を背負ったジャージ! 僕もこれが着たい!」
こうして窪木は自転車競技の世界に飛び込んだ。
「練習はひたすら先頭交代。メガホン片手の監督がクルマからがんばれと励まし続けるなか、キツくても必死に耐えて走り続ける厳しいものでした」
入学時50kg弱と細身だった体も1年で62kgまで大きくなり、全国区で活躍する先輩たちに練習で食らいつけるまでになっていた。
重圧を押しのけ国体優勝。恩師三浦恭資との出会い
転機となったのが2006年、高校2年で出場した兵庫国体少年ポイントレース。この当時の福島県は自転車競技黄金期。先輩の我妻 敏による国体少年1000mTT優勝をはじめ、上位に福島県勢が入るなか、団体総合得点争いで浮上してきた奈良県。その戦いを制するため、最終日のポイントレースに出場する窪木には大きなプレッシャーをかけられた。
息も詰まるほどの緊張のなか、沖縄の内間康平らとの勝負を制した窪木は、福島県の団体総合優勝に大きく貢献した。「厳しい状況を打破した経験。この日を境に自分の競技力が上がったと実感し、それだけでなく全国区で名前が知られることで周囲も変わってきました」
また現在の窪木が多種目で活躍する背景としては、1000mの短距離からツール・ド・おきなわ国際レースまで優勝してしまう先輩、我妻 敏の背中を見てきたことが大きかった。「どんな種目でもいいから日本代表になりたかった。そのためには苦手な種目を作らないことが重要でした」
高校3年の5月には東北大会でロードを含めた中長距離4種目を制覇。前年の活躍も買われ、ついにジュニア日本代表でツール・ド・ラビティビに選出されることに。
そしてここで窪木は後の恩師となる三浦恭資に出会う。「遠征の飛行機で、偶然席が隣だったんです。雑誌でしか見たことのない遠い存在でしたが、思い切って声をかけました」
そしてステージレース最終日のクリテリウム、残る周回は3周。三浦監督の指示を受けていた窪木は、意を決して一人で飛び出した。そして25秒稼いだタイム差をプロトンに詰められながらもリードを保ち、ついに独走でゴールに飛び込んだ。一人の少年による果敢な展開に、国を超えて会場には「ジャパン!」コールが鳴り響いた。
その走りは三浦の心を動かし、その後アジア選手権、アジアツアーと多くの試合に選出され経験を積んだ。
「ナショナルチームでは現役プロ時代の宮澤崇史さんや飯島 誠さんら、先輩たちの勝負力に驚き、戦ったアジアの選手たちの強烈なハングリー精神を目の当たりにしました」
隣町の高校で偶然出合った自転車競技は、壮大なスケールで窪木の人生を導いていった。
SHARE