イタリア・オルコ渓谷、グラン・パラディーゾを訪れて|筆とまなざし#388
成瀬洋平
- 2024年08月28日
アルプスの山奥に隠された珠玉の風景が、そこにはあった。
厳しい夏の暑さが幾分和らぐと、天気予報は傘マークばかりになった。東西にのびる秋雨前線と台風。予定していた講習会の仕事は先週から中止が続き、文字どおり仕事にならない日々が続いている。そうこうしているうちに、イタリアから帰国してからひと月が経った。もう少し、彼の地の話をしよう。
オルコ渓谷の中心的な観光地チェレゾーレ・レアーレ(といっても建物はまばらな小さな村)は標高およそ1,600m。もっとも大きな岩場であるサージェントもその近くにある。オルコ川に沿って走る車道はさらに上流へと続き、前回の記事で紹介した「SASSO DEL CARRO」で森林限界を越える。車道は谷を外れて山の斜面をくねくねと曲がりながら高度を上げる。やがて水力発電のために堰き止められたセッル湖の脇を通りすぎ、いくつかの自然の湖の間を縫って走ると広い谷に出る。谷にはひときわ静かなニヴォレ湖が透きとおった水をたたえ、その畔にサヴォイア小屋が佇んでいる。そこはグラン・パラディーゾのハイキングの拠点。オルコ渓谷を訪れる、クライマー以外の人々はここを目指してやってくるのだろう。
以前、セッル湖までは訪れたことがある。しかし時期が10月だったこととクライミングができない雨の日に訪れたこともあって、辺りは真っ白。景色は全く見えず、なんだかとても寂しい場所だなと思って引き返した。
今年、ぼくらが訪れたのは夏のよく晴れた一日だった。すぐ近くに雪を抱いたグライエアルプスの山々が見渡せ、辺りに広がる草原には可憐な花々が咲いていた。西に見える山の向こうはフランスである。小屋のすぐ裏手から辺りを周遊するトレイルが続いており、多くのハイカーが思い思いにハイキングを楽しんでいる。彼らに連れられるようにトレイルを歩き出すとすぐに牛小屋があった。グレーのジャケットにニット帽を被った牛飼いのご老人。犬を従え、杖を持つ姿はまさに絵に描いたような佇まいである。こんな標高の高いところにも山で暮らす人々の営みがあることに、オルコ渓谷の懐の深さを感じた。
15分ほどトレイルを歩くと湖を見下ろす気持ちの良い丘に出た。妻はさらに先まで歩いてくるというので、ぼくはその丘で絵を描くことにした。小さな岩の上に腰を下ろしてスケッチブックを取り出す。勿忘草が咲く草原に、柔らかい風が頬を撫でながら吹き抜けてゆく。極上のアトリエ。なんて気持ちの良い場所なんだろう。
ここにはモンブランもなければマッターホルンもない。シャモニのようなおしゃれなレストランもなければ一気に山の上に運んでくれるロープウェイもない。けれど、ここには名前も知らない静かな山々があり、その山を生活の場とする人々の暮らしがある。それは、アルプスの山奥に隠された珠玉の風景。訪れる人間を包み込むような優しさと親しみやすさがある。
クライミングを目的に訪れたのでは出逢えなかった夏のグラン・パラディーゾ。訪れる度にこの土地のことをもっと深く知りたいと思う。
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