猟犬ユキと冬の暮らし〈後編〉|Study to be quiet #14
成田賢二
- 2023年11月23日
犬とともに猪を追う。偶然が積み重なって猟となる。偶然を必然にするためには予測するしかない。小さくて臆病な犬と歩んだ日々の記録。
文・写真◉成田賢二
ユキと止めた初めての猪のこと。
ユキが来て冬の山歩きが楽しくなった。とくに雪山がいい。猟に限らずとも、登山でもアイスクライミングでもなんでもいい。ダニはつかないし足跡は追いやすい。森林限界くらいまでは平気で登る。夜はさすがにテントに飛び込んでくるが、昼間はつねに雪の上を駆け回っている。
山に行かないときは鶏小屋の横に繋いで見張り番をさせている。家の周りはキツネが多く油断はできない。だが鶏を舐め回すような目つきで見つめているときも多い。不安は的中した。
ちょうど行事があって不在にしていた。留守番を頼んだ義母から電話があり、ユキちゃんが鶏を口に咥えているよという。急いで帰宅するとユキの寝床の横に鶏の脚だけ二本、地面から飛び出している。どうみても身体は埋まってる。お前食ったな? と言うと彼女はスッと目をそらした。元気な若鶏の一羽が運動場の柵を飛び越えて外に飛び出したのだろう。まさかあんなに高く翔ぶとは思わなかった。そしてすぐ横にいるユキがそいつを見逃すはずはなかった。先週から卵を産み始めたばかりの若鶏だった。
私は腹の底から怒って犬を張り倒したが、これは間違いだったと、いまでも後悔している。
「犬が鶏を食いやがった」
「だろうね、そのうちそうなると思ったよ」
「張り倒してやった」
「あんたはアホか、犬が鶏食うの当たり前じゃねえか、絶対叱るじゃねえぞ」
「産み始めたばっかの若鶏よ」
「そんなもん犬が知るか! すべて自分が悪い、鶏が飛び出すような柵にしてた管理が甘い」
「ぐっ」
「そんなことしてりゃなんにも追わなくなるわ」
人は犬に自己を投影する。抽象的な思考ができる犬ほど賢いと思う。それゆえに犬は立ち居振る舞いが飼い主に似てくる。
犬本来の犬らしさは現代の飼い犬にはおよそ必要がない。そして現代の犬のほとんどが作為的な交配によって産まれてくる。犬は犬らしくあればよい。私はどれほどに犬を誤解していたのか。
次の猟期が始まった。さまざまな失敗を繰り返しつつ、私とユキのペアはポツポツと鹿を獲れるようになっていた。あるいは犬ではなく高性能の銃を持ち、かつ射撃の能力を高めればそれ以上の猟果を得られたのかもしれない。しかしそういった猟は私たちの芸風ではなかった。獣同士の攻防を見ることが猟の本質だということに私はようやく気づき始めた。
私は狙いを猪に変えた。この小さくて臆病な犬で猪が本当にとれるのか、正直なところ見当がつかない。
いま思えばその日はどうも山のようすが違っていた。新しく入った山で、どうも鹿ではなさそうな、急斜面をずり落ちたような足跡をときどき見た。その後にユキが鹿を何度か追い回し、14時を回った。今日はもう終わりかなとやや露岩混じりの痩せた西向きの尾根をトボトボと登っていた。
いつもどおり私の20mほど前方右手をかき回していたユキが「キャン」と小さく声を上げた。それほど違和感を与える声ではなく、タヌキか穴熊かという感じだった。なにがいるかなと4、5歩だけ歩いて見やると寝床から起き上がった猪がユキのほうを威嚇して顔を振り上げている。私のほうには気づいていない。ユキは恐ろしいものに遭遇したようすで私の視野の外でガサガサうろたえていたようだが、それを見る間もなく私は弾を込めてスコープを覗いた。近い、撃ち下ろしである。
銃声とともに猪はよろめきながら動きを止めつつ、南斜面を一気に転がり落ちていった。間違いなく当たった。震える手でスマホの地形図を見る。この真下は沢まで急傾斜が続き、最後は崖になっている。猪は鹿と違って脚が短く全体のフォルムが丸いので、一度も立木に引っかかって止まることなく転がり落ちていくことに妙に感心した。
猪が寝ていた場所はペッタリと落ち葉が丸く平らになっている。単独であったらしい。
呼吸を整えてあたりを見回す。猪はそこにはいない、犬もいない、西日さす午後の静寂の山そのものである。オレは本当に猪を止めたのかと疑わしくなる。あたりをウロウロすると空の薬莢を拾った。間違いない。
とりあえず犬はほっておくことにする。そのうちこちらの匂いを追ってくるだろう。まずは半矢かもしれない猪を止めねばならない。急斜面を木々に掴まりながら慎重に下る。斜面には猪の転がった跡が落ち葉の上に続いている。沢の音が聞こえてくると最後は地形図どおりに崖となり痕跡は消えた。崖を大きく上流に迂回して沢に降りる。数段ほど沢を下ると小さな釜に猪が浮かんでいるのが見えた。釜の水が赤く染まっている。このときようやく血抜きの手間と肉を冷やす手間が同時に済んでいることに気づいた。16時近い。手早く猪の足を縛って河原の立木に止め、もう一方を胴から底石に縛って釜に沈める。水のなかなら狐も来まい。地形図を見ると、この谷を猪を引きずって下るのは、滝があって難しい。今日は一旦引き上げることにして犬を探す。猪の寝ていた尾根まで登り返し、さらにしばらく尾根を下ると岩陰で震えるように丸くなっていたユキがこちらをじっと見ていた。
私はユキになんとかして止めた猪を見せたかったが、夕焼けはすでに山の端に落ちようとしており諦めざるを得なかった。リードに繋ぐと少し元気になって歩き始めた。
私は射撃に至るまでの過程を何度も何度も反芻した。犬がどこまで状況を把握していたのかがわからない。しかし犬がいなければ獲れなかったと思う。鹿ではない足跡を見たときから犬はすでに予感していたようにも思う。
「猪止めました」
「おう、やったじゃん、意外に早かったな」
「それらしいアシ(足跡)は見たんだけど、確信はなかったんだが、犬は気づいてたんだろうか?」
「だから言ったろ? 犬と話ができたら確実に獲れる。だったら話せるくらいまで犬のようすを見てりゃいい」
「でもやっぱり銃声聞いてすっ飛んでどっかいっちゃった」
「そんだけ臆病なら(猪に)腹裂かれることはまずない、あんたは足がいいんだから、自分が猪に寄ってきゃいいだけのこと」
「つまりオレたちはそういうコンビなのね」
「犬によるね、そのうち違う犬もほしくなる」
SHARE