
カシンリッジへ|大いなる山 Mt.デナリ・カシンリッジへの挑戦#7

佐藤勇介
- 2025年02月17日
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北米大陸最高峰、デナリ(標高6,190m)。7大陸最高峰のひとつに数えられ、その難易度はエベレスト登山より高いという声もある。
高所登山としての難しさだけでなく、自身による荷揚げ(ポーター不在)、トレイルヘッドからの比高の高さ、北極圏に近い環境など、複合的要素が絡み、登頂成功率(※2023年度)は30%前後。
そんなデナリへ初めて挑んだ、山岳ガイドの山行を振り返る。
文・写真◉佐藤勇介
編集◉PEAKS編集部
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Day 10 ウエストリブ下降
朝起きるとすっきりと美しい青空が広がっていた。朝食を済ませて準備を整え、テントをたたんで歩き出す。
ここに来たときと比べてテントの数はずいぶん減っている。ピークのシーズンはすぎ、入山者より下山者の数が増えているのだろう。周りのクライマーたちはまだ動き出していないようでキャンプは静寂に包まれていた。

カシンリッジへ向かうにはまず、手前にあるウエストリブの尾根上に登り上げてこれを下降する。実際は尾根を伝って降りるというよりも尾根の脇のルンゼを絡めながら降りていく。
そのまま氷河上まで尾根を忠実に下降していくラインもあるが、レンジャーのアドバイスによると、視界があれば第二スノードームからシアトルランプと呼ばれる斜面を降りればショートカットすることができるらしい。ただし、クレバスを縫って降りる複雑なラインであるらしい。

息を切らして雪面を登り、大きなプラトー(台地)に達する。同時にまばゆい太陽の光が飛び込んでくる。途中、一カ所クレバスを迂回する。
ここまで順調で皆の体調もよく、周囲の素晴らしい景観に歓声を上げながら歩く。ウエストリブの下降ラインを探しながら進むが、地形が複雑でいまいち判然としない。いくつか候補となるルンゼをのぞき込んでみたけれど断崖になっており、選択肢から外さざるを得なかった。
GPSの罠に……
そうこうするうちに、遥か眼下に拡がっていた雲海が近づいてきていることに気づいた。それは潮が満ちるように音もなく着実に迫り、瞬く間にこれから下るべき尾根はすっかり雲の下に隠れてしまった。
視界がなくては地形判断はできないのでGPSを確認する。現在地の特定にしばらく時間がかかったが、どうやらウエストリブの左に沿ったルンゼの源頭にいることを確認する。

出だしはかなり急なのでダブルアックスで中間支点を作りながら下っていく。雪の下に隠れた氷にアックスを打ち込んでいくが、ひと振りごとに息が切れてしまう。普段は容易にできることが、5,000mに近い場所では限りなくつらく苦しい。
上空は晴れているが、下るにつれて雲海に飲み込まれていく。すでに周囲は真っ白なガスに包まれている。200mほど下降していくと、傾斜はさらに増していくようだった。これはどうもおかしい。あまりに急すぎる!
わずかに3人休めそうなテラスを見つけて、いったん休憩を取る。周囲を観察すると、ガスの切れ間に薄ぼんやりと大きな尾根が下方左手に見えた……と思ったら、またガスで真っ白になった。

念のためGPSを再度確認すると、驚くことに現在地はウエストリブの右手の壁を示していた。どうやら下降前に確認したポイントは正確ではなかったらしい。天候が悪かったり見通しの悪い地形の場合は、GPSの位置情報の捕捉にズレが生じることがある。複数の衛星からの情報を基にピンポイントで位置を特定する仕組みだが、捕捉できる衛星が少ないと誤差が生じる。
まんまとGPSの罠にハマってしまったのである。もっとも、誤差が生まれることの知識もあったし、地形図やコンパスを使うことで情報の信頼性を上げることもできる。最終的には道具を使いこなす人間のミスでしかない。タイトな行程の制約が無意識のうちに焦りを生み、落ち着いた判断ができなかったのかもしれない。

現在地はウエストリブから直線距離で200mほど右に逸れた場所であり、簡単にいえば200mトラバースすれば正規のルートに復帰できるわけだ。左手に、薄ぼんやりではあるが大きなリッジがガスのなかに見え隠れしている。岩場を縫うように雪をつないでいけば、ほどなくウエストリブに乗り上がることができるだろう。小休止を挟んで、私がトップでトラバースを開始する。

アラスカの高峰の洗礼
進み始めてすぐに、これは容易ではないと思い知ることになる。雪で覆われていると思われた斜面の中身は、ガラスのように透明な氷に覆われていた。
南面に位置する壁は途方もない年月の間、日差しを浴びながら凍結と融解を繰り返し、きわめて純度の高い厚く硬い氷の鎧をまとっていた。
日本では経験することのできない、アラスカの高峰の洗礼であった。傾斜こそ60度程度で、バランスを取れば腕を休めることができるが、そのぶん脚への負担が大きく、ふくらはぎが悲鳴を上げる。
根気よくアックスを氷に刺しながらトラバースしていくが、ウエストリブの側壁が急な岩場となっており、取り付くことができない。仕方なく懸垂下降し、弱点を探る。現在私たちのいる斜面は南向きだが、目標のリッジは南東に向かっているので真っすぐに懸垂下降するとリッジは離れていく。従って、懸垂下降したらトラバースしてリッジに近づくということを、弱点が見つかるまで繰り返すこととなる。

氷にスクリューを打ち込んでアンカーとしてお互いにビレイするが、立つことのできるテラスは皆無で、常にアイゼンのフロントポイントで体重を支える状態が続く。もはや脚は爆発寸前である。
トラバースを開始したのが13時くらいだったろうか。ようやく弱点を見つけ、ウエストリブに乗ることができたときは19時をすぎていた。じつに6時間以上も氷のトラバースを続けていたことになる。
ウエストリブ上では久しぶりに腰を降ろして休むことができた。下部にスノードームとおぼしき平坦地が見える。それほど急傾斜ではないのでサクサク歩いて下れると思いきや、やはり雪面の下はガラス氷で、再び懸垂下降を余儀なくされる。そういえばレンジャーが「今年は雪が少なく氷が多い」と言っていたことを思い出す。

長い長い一日の終わり
ようやく歩ける斜度になって、雪も深くなったので整地してテントを張る。
遅い夕食を取りながら、明日からの行動について話し合う。今日一日の行程はルートミスもあり半分しか進めていない。ただでさえ4泊の行程を3泊でこなす予定だった……。カシンリッジ上でストームに捕まったら? そもそも高度順応は万全なのか?(こんなに苦しいのに…?)
頭のなかでさまざまなシミュレーションをする。こんなとき、若く野心に満ちていたら気合で突っ込んでいたかもしれない。「何とかなるだろう?」……と。しかし多くの失敗を経験してきた身としては、勝算の低い勝負は避けるべきであることは火を見るより明らかだった。ここではひとつのミスが即、重大な結果につながる。この日のうちにカシンリッジの基部まで行くことが最低条件であったはずだ。
最後まで決断を渋っていた太雄をなんとか説き伏せ、残念ながらカシンリッジを諦めることになった。

予定は変更。このまま、カシンリッジよりだいぶやさしいバリエーションルートであるウエストリブを登り、デナリ山頂を目指すこととなった。
長い長い一日が終わりシュラフに潜り込むころには、すでに日付が変わっていた。横になりながらも、「果たして決断は正しかったのだろうか?」と何度も思い返す。答えの出ない問いを続け、「もう決めたこと」だと自分に言い聞かす。そうするうち、抗いようのない睡魔に負け、いつしか眠りに落ちていた。
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