近くの低山でもいいのかもしれない。
山の空気を吸って、
「あっちに見えるのが新宿だよ」と教えてあげたい。
きっと、ゆっくりでも歩けるよ。
携帯の受信音で目が覚めた。
― 今日は晴れるみたい。いい式にするね
香織からのLINEに既読をつけてしまった。なんて返そう。
見上げると、壁の時計は6時を指している。
今日は、香織の結婚式だ。
恋人ができた、と香織からうれしそうな連絡がきたのは、三年前だった。仕事ひと筋だった親友の、久々の恋。話が聞きたくて私はすぐに会う約束をした。
指定された有楽町のバーへ行くと、香織は浮かない顔をしていた。
「このあいだzoomで話したとき、彼が画面に映ったの、見えた?」
「あぁ、一瞬ね」
香織のうしろを横切った人がいた。でも、正直、黒っぽいTシャツ姿しか覚えていない。
「ごめんね、紹介しなくて」
なんで謝るの? と笑うと、香織が目を伏せた。
「あとで彼に怒られたんだよね。友だちの前で俺を無視するのかって」
同棲を始めて、ギクシャクするようになった、と言う。香織が家で仕事をしていると、忙しさを見せつけているのか、と言われ、終電で帰ってベッドに倒れ込むと、家事もしないで、と彼がぼやく。
「それさ、彼といて楽しいの?」
批判めいたことは言いたくないけれど、香織の本音を聞きたかった。
「そうだね」
香織は小さくため息をついて、「もうちょっとようすを見て、変わらなかったら……別れようかな」とつぶやいた。
窓の外では、イルミネーションがせわしなく光っている。いまの香織は、クリスマスを楽しむ余裕もなさそうだ。
「春になったら、どこか遊びに行こうか」
私が言うと、表情が緩み、「いいね!」と言った。
数日後、香織に「尾瀬はどう?」とLINEを送ると、「めっちゃいい!」とすぐ返事がきた。登山経験はないけれど自然にどっぷり浸かってみたい、という。
「広い湿原と空、気持ちいいよ」と返すと、香織はネットで検索した水芭蕉や尾瀬ヶ原の画像を送ってきた。
行くのは、4月末。ゴールデンウィークの初日に、と約束した。
桜の時季も過ぎ、尾瀬行きが近づいてきたある日。香織からLINEが来た。
― 最近体調悪くて。もしかしたら直前になって、やっぱり無理って言うかも
― え、大丈夫?
― 最近、めまいがひどくて
それなら延期しよう、と私は即座に言った。体調が悪いときに山に行っても、いいことはない。すると、
― まだキャンセルはしなくていいよ!
― やっぱ忘れて
― 大丈夫だから
雪崩のようにメッセージが飛び込んできた。どうしたんだろう。なんだか焦ってるみたいだ。
― ゆっくり休んで。万全になったら必ず行こう
私のメッセージを最後に、香織から連絡が途絶えた。
心配だったけれど、追加のLINEは控えることにした。体調が良くなったら、香織からきっと何か言ってくる。そう思っていた。
そして、2カ月後。
香織から、「彼と尾瀬に行ってきたよ」という短いメッセージがきた。
えぇ? と声を上げてしまった。拍子抜けというか、がっかりというか。……まぁでも、元気になったなら、それはそれでいいけど。いろいろ計画していた私は、ちょっと複雑だ。
お土産を渡したいからお茶しよう、と香織に言われて、翌日の約束をした。
広尾の喫茶店で、「お待たせ」と肩を叩かれ、私は一瞬固まった。
目の前に来るまで、香織だとわからなかった。
たっぷりとしたベージュのロングワンピース姿。いつも短いスカートを穿いていたから、ずいぶん印象が違う。それだけじゃない。体がふた回りぐらい大きくなっている。
「香織、土曜日も仕事じゃなかったっけ?」
「休職してるの」
どこか涼しげな表情で向かいのソファに座る香織。 鼻歌を歌うようにふんふんとメニューを見て、滑らかな声でロイヤルミルクティを注文する。
飲みものがくると、角砂糖をスプーンでゆっくり回しながら、香織は話し始めた。
春先に職場で倒れ、病院で過労と精神的ストレスが原因だと診断された。薬の副作用で二十キロも太り、最近は頭がぼうっとして動けない日もある。
「香織、仕事が大好きだったのに。きついでしょう」
「うーん、私の代わりなんて、いくらでもいるから。彼もそう言ってるし」
香織はゆっくりとミルクティを飲む。
「いいこともあるよ。家で過ごすようになってから、彼が優しくなったの」 と、香織は声のトーンを上げた。
彼が、尾瀬に「連れていってあげるよ」と言ってくれた。テーブルに出していた尾瀬の写真を見たからかもしれない。
「彼が、行けるところまででいいから、って言ってくれたの。案の定、登山口 から十五分くらい歩いたら、動けなくなっちゃって。そしたら彼ね、それが本当の香織なんだよ、って。そのままの香織でいいんだよ、って」
聞きながら、息苦しくなってきた。「そのままの香織」って……?
彼は、学生時代の、あの溌剌とした香織の姿を知っているのだろうか。あれは「本当の香織」じゃないって?
記憶のなかの尾瀬が、どんよりと曇っていく。
「で、ね。その帰りにプロポーズされたの」
香織が薄く微笑む。目の奥の表情が、読み取れない。
「これ、私たちからのお土産」
香織は、おもむろに小さい箱を目の前に出した。饅頭の詰め合わせだ。
私が餡子が苦手だということ、香織、これまで忘れたことなかったのに。「食べて」という香織に、私は「ありがとう、あとで」と言った。
結婚式には絶対来てね、と言われていたけど、私は断ってしまった。
「友人代表挨拶を頼むつもりだったのに。彼のこと、気に入らないの?」と香織からメッセージが来て、私は、「ごめん。仕事が入っちゃって」と返した。
嘘だった。仕事だなんて。親友の結婚式なのに、私は行きたくなかったのだ。
尾瀬の湿原、香織はどのあたりまで歩いたのだろう。 奥に歩いていくと、もっともっと空と湿原が広がっているんだよ。
近くの低山でもいいのかもしれない。山の空気を吸って、「あっちに見えるのが新宿だよ」と教えてあげたい。きっと、ゆっくりでも歩けるよ。
「おめでとう」と打って、私は送信ボタンを押せないでいる。
窓の外が、少しずつ明るくなってきた。
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PROFILE
ランドネ 編集部
自然と旅をキーワードに、自分らしいアウトドアの楽しみ方をお届けするメディア。登山やキャンプなど外遊びのノウハウやアイテムを紹介し、それらがもたらす魅力を提案する。
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