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Mountain Story vol.04 「要害山」
Mountain Story vol.04 「要害山」

さっきの女性が戻ってきた。

用が済んで、帰り道だろうか。

ソールの厚い、頑丈な運動靴を履いている。

登山靴かもしれない。

Mountain Story

フリージアの甘い香りが店先にやさしく漂う。小ぶりで、うつむいた感じで、どちらかといえば地味な花なのに、こうして香りでしっかりと主張している。バラやアネモネのなかにあっても、引けをとらない。

こうして花を選ぶのは、私の至福の時間だ。

 

毎週家の花を変えても、夫は気づかない。でも、それでいい。夫にとって、仕事の疲れがとれる家であれば、いい。私自身、2年前は仕事に必死だった。疲れて倒れ、休職した私に、彼は働かなくていいよと言ってくれた。それがプロポーズだった。感謝しかない。

 

黄色と白のフリージアを、と言いかけて、奥にある ラナンキュラスに目が留まった。バラに似た、たっぷりと華やかなピンクの花。そういえば、結婚式の花束がラナンキュラスだった。5本ください、と店員に声をかける。

と、背後にタン、タン、と軽快な音が聞こえた。ふり向くと、サングラスをかけた高齢の女性が、白杖を地面に当てながら、商店街を歩いていく。

 

お待たせしました、と店員に花束を差し出され、ちょっと華やいだ気持ちになる。

 

商店街が賑やかになってきた。スーパーから出てくる人、スーツ姿のサラリーマン、子どもの手を引くお母さん。夕方5時を回ると、だれもがどこかに急いでいる。忙しそうで、うらやましい。私は正直、暇をもて余している。もう1年以上、話す人がいない。

 

学生時代からの親友は、結婚式に来てくれなかった。スピーチも頼んだのに「仕事が忙しいから」とあっさり断られてしまった。でも、30歳近くになれば、そんなものなのかもしれない。ほかの友だちも、なんとなく連絡がつきにくい。みんな、自分の生活がある。私は……子どもができたら、ママ友とかできるのかな。できるといいな。でも、これからもずっと家にいることになるのだろうか。精神科の先生は、1年以内には仕事復帰も可能、と言ってくれた。仕事に戻れるのか、戻ろうか……迷う。

 

歩いてくる人の足元から、白い杖が見えた。さっきの女性が戻ってきた。用が済んで、帰り道だろうか。ソールの厚い、頑丈な運動靴を履いている。登山靴かもしれない。私は目で彼女のうしろ姿を追った。丁字路で立ち止まり、首を傾げ、ゆっくりと体を右へ、左へと向けている。道に迷っているのだろうか。

 

思わず、彼女に向かって歩き出した。
「すみません、あの、何かお手伝いできること、ありますか」

 

その人はふり返って、大きく頷いた。
「駅のほうに行きたくて」

明るく弾んだ声。私は「良かったらお連れしましょうか」と続けると、その人は「助かります」と、表情豊かに眉を上げた。

大きい反応が、なんだかとてもうれしい。

 

彼女は私の右肩に、そっと手を乗せた。安心したように微笑んでいる。そっか、こうやって歩くんだ。目の見えない人のサポートの仕方を、私は初めて知った。

 

緊張して、足がもつれないかと不安になる。周りの人の目も気になる。変に目立ってないだろうか。少し顔を上げると、商店街はさっきと何も変わらない。だれもこっちを見ていない。案外、街にうまくなじんでいるのかもしれない。

 

肩に、女性の手の温度を感じる。夫以外のだれかとこんなに近づくのは、いつ以来だろう。結婚前、コロナ前、いや、もっとかもしれない。手の温もりが、背中全体に沁みてくる。もう少しこのまま歩き続けたい。地下鉄の駅の階段を降りて、改札に近づくと、その人は明るく「ありがとうございました」と言い、手を離した。ていねいに会釈をし、改札を通り抜けて、白杖で左右を確かめ、ホームへの階段を降りていく。女性のリュックには、白杖とは別に、山の杖のようなものが刺してあった。ストック、だろうか。私も学生時代、親友に連れられて行った高尾山で、使ったことがある。あの人は、山登りの帰り、なのだろうか。……まさか、目が見えないのに。

帰宅し、白い花器にラナンキュラスを生ける。リビングのテーブルに置くと、私はそれから先、やることはない。

夕飯は、昼間に材料を並べておいた。あとはオーブンに入れるだけ。掃除はルンバがスイッチひとつでやってくれる。お風呂を沸かすのも壁のボタンひとつ。私がやることは、ピッピッと操作することだけだ。

 

世の中の主婦って、毎日、どんなことをしているんだろう。私もその一員なのか、そこからはみ出ているのか、そこにも届いていないのか、よくわからない。あとは、ただひたすら、パソコンに向かってひとりの時間をすごしている。

 

ふと思い立って、視覚障害者、山登り、と検索に入れてみる。

 

夜8時半、夫が帰宅。

高校の野球部の顧問をしている夫は、毎日朝が早く、帰りが遅い。私は「今日はどうだった?」と尋ねて、相槌を打ちながら話を聞く。夫は夕食を食べながら話が止まらない。香織は今日どうだった? と夫が聞くことはない。聞かれても私は話すことがないから、それでいい。でも、今日は、私も少し話したい。

 

夕食後、テーブルの空き皿を流しに片付けながら、夫に言ってみる。
「今日ね、お花屋さんに行ったとき、目の見えない人がいてね」
「へー」
「いっしょに歩いて、駅まで、連れていったの」

 

肩にこうしてつかまるの、と女性の真似をして夫の肩に手を載せると、
「何その人、男?」

 

急に夫に鋭い目を向けられ、反射的に手を引く。
「違うよ。女の人。少し年取った人」
「そっか」

 

夫は穏やかな顔に戻り、右手のスマホに目を向ける。今日のニュースをスクロールしているようだ。
「それでね、その人、山の格好していたの。目の見えない人が、山に行くなんてあるのかなと思って。ネットで検索してみたら、あるのね。視覚障害の人と目の見える人が、いっしょに山に登る会っていうのが」
「へー」

 

夫は、あまり関心がなさそうだ。
「体験で参加してみようかと思って」
「いくら?」
「700円だけど……」
「なんだ、そんなもんか」

 

いいんじゃない? と夫はスマホから顔を上げずに言った。よかった。私はホッとしてリビングを出ようとすると、
「その山登りさ、いいんだけど、ひとりで行くつもり? 俺は? 置いてくの?」

夫がちょっとおどけて口を膨らませる。
「え? 行けるなら……」

 

もちろん、いっしょに行けるなら行きたい。でも、夫は最近土日も部活で、休みなしの状態で、現実的に行けるわけがない。私は曖昧に笑った。

 

2週間後。朝、弁当を詰めて夫に渡す。昨日のトンカツの残りと、ほうれん草の胡麻和え、卵焼き。いつもありがと、と夫が微笑む。夫はこうして、毎日お礼を言ってくれる。本当に、文句なしの夫だ。

 

夫を玄関で見送り、ドアを閉めた瞬間、私は急いでクローゼットに走り、中からリュックを取り出し、着替える。アウトドア用のインナーと、シャツ。とりあえず動きやすいパンツを穿いて、手袋と帽子を出す。

 

ふもとの駅に、8時半に集合。

靴は、とりあえず、ナイキのスニーカー。ジョギング用にと買っておいたのに、ほとんど使ってなかった。多分、靴擦れせずに歩けると思う。

忘れものは、ない。急がないと。

 

私は、玄関の扉を開けた。

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ランドネ 編集部

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自然と旅をキーワードに、自分らしいアウトドアの楽しみ方をお届けするメディア。登山やキャンプなど外遊びのノウハウやアイテムを紹介し、それらがもたらす魅力を提案する。

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