顔を上げると、太陽が温かい。
周りを囲む低い山々は、
雲にすっぽり覆われて、
その上から光が差し込んでいる。
〈 最近どこも連れていけてなくて、ごめんな 〉
バスに揺られながら、夫からのラインに目を落とす。メッセージのあとには、クマが「よしよし」と頭を撫でるスタンプがついている。
こうしてひとりで出かけるのは、結婚してから初めてかもしれない。
それまで、私は何でもひとりでサクサクと決めてきた。進路もバイトも仕事も住むところも。だからこそ「守られる」感覚は新鮮で、私はあっという間に、夫の庇護のもとに暮らす生活を選んだ。
夫は、私が出かけようとすると、必ず「連れていってあげる」と言うので、どこに行くにもいっしょだった。
今日のことは、夫には話していない。彼が仕事に出るのを見送ってから、私は急いで支度をして、家を出た。
山行きは、先日、白杖を持った、山帰りの女性を見かけたのがきっかけだった。その人は、目が不自由なのに、ひとりで迷いもせず、リズミカルに歩いていた。清々しくて「自由」という言葉がぴったりの雰囲気だった。
帰宅するとすぐ、私は、パソコンを立ち上げ、インターネットで視覚障害者と晴眼者がいっしょに登山をする団体を見つけた。そして、その場で体験参加を申し込んだのだ。私ひとりの名前で。ネットの上で、私はいとも簡単に、知らない世界に踏み出していた。
要害山のふもとに、20人ほどのグループが見えてきた。賑やかな会話も聞こえてくる。
「お久しぶりね」
「久しぶりねー。あなたも全然変わらないわ、お肌もピッチピチ」
「何言ってるのよ、見えないくせに」
思わず足を止めた。見えないくせに、と言われた人は、サングラスをかけている。視覚障害者だ。でも、気にしたようすもなく、楽しそうに言う。
「あら、意外と見えてるのよ。心の目なんかは全部お見通し」
「まぁすごい、悪いことできないわね」
「そうよ」
笑い声が響く。遠慮なく思ったことを言い合っている。私はドキドキしながら聞いていた。
サングラスをかけた女性は、私のほうに顔を向けた。
「松田さん、でしたっけ。そこにいるのかしら。初参加よね?」
突然自分の名前を呼ばれて、私は「あ、はい。松田です」と上ずった声で答えた。どうして私がいるのがわかったのだろう。
「まぁ、お若いのね。声でわかるわ。私、赤名と言います。松田さんは、どんな靴を履いているの?」
どんな……って。えっと、靴の側面が黄色で、足の甲は黒で、紐は黒と黄色が混じっていて、素材は完全防水で……。
言葉を並べるほど、説明になっていないような気がする。そもそも、色を言って伝わるのだろうか。
「そう。そうなのね」
赤名さんは、にっこり微笑んで、頷く。
会のリーダーが紙を配り、歩くペアを発表した。私のパートナーは、さっきの赤名さんだ。会ったばかりなのに、知り合いといっしょになったようで、うれしい。
私が先になり、赤名さんは、私のリュックに捕まって、うしろを歩く。
ゆっくり慎重に山道を歩き始めると、うしろから「ふつうに歩いて大丈夫よ」と言われた。急な下りの傾斜も、石ころがたくさんある道も、赤名さんはスイスイとついてくる。本当は目、見えています? と聞きたくなるくらい、赤名さんは、石をよけ、盛り上がった木の根も乗り越え、安定した速度で着実に歩く。
道が平らになった。杉林に覆われ、太陽の光が届かない、うす暗いところに差しかかった。
と、私の右ポケットの携帯がピロンと鳴った。「松田さん、携帯」と赤名さんに言われて、携帯を取り出す。夫からのラインだった。
〈 今日もしかして出かけてる? いま、どこ? 〉
すぐにポケットに戻した。電源も切った。夫のこういう言葉を、いままでは愛情だと感じていたけれど、何か、違うような気がする。
右前方に花が見えてきた。
「椿? 何だろう……」
私がつぶやくと、赤名さんが「どれ?」と手を伸ばした。これです、と私が赤名さんの手を花に近づける。
「これ、椿じゃないわよ。椿はもっと花びらが厚いもの」
赤名さんは、花をそっと手で 触り、顔を近づけて香りも嗅いでいる。
「うん、違うわね。何の花かしら」
花が、わかる?
私が驚いているのに気がついたのか、赤名さんは、ふふっと笑い、「私ね、20歳までは普通に目が見えたのよ」と話し出した。
「目が見えなくなったのは、27歳のとき。で、30歳で結婚」
「お相手は、その……」
「夫は目が見える人よ。お見合いでいっしょになったの」
結婚したときは、すでに視力を失っていた、ということ?
聞きたいことがいっぱいある。でも、どう聞いていいのか、わからない。
「えっと……旦那さんとは、仲良しですか」
「ラブラブよ! 毎朝ご飯を作ってくれるの。我が家のシェフなのよ」
赤名さんは、生き生きと話し始めた。今朝も朝5時半に起きてごはんを作ってくれたと言う。今朝のメニューは、納豆ご飯と味噌汁、卵焼き、焼き魚。
「朝から豪勢ですね」
「朝が一番食べるの、私。幸せね」
赤名さんはうれしそうに笑う。
リーダーから、お昼休憩、終了の声がかかった。
午後の下りは、転びやすいので、ゆっくり歩く。
「太陽が傾いたのかしら、右の頬にあったかく感じるわ」
赤名さんの声に、足を止めた。顔を上げると、太陽が温かい。周りを囲む低い山々は、雲にすっぽり覆われて、その上から光が差し込んでいる。
「ねぇ、松田さん、私たちって本当に幸せね。いまの時代、こうやってどこへでも行けるんだから。昔なんて、目が見えない家族は、家に隠して、閉じ込めていたこともあったのよ? 私はいまの時代に生まれて、本当、幸せ」
どこにでも行ける、のか。
私は、なんでずっとあんな狭いところにいたのだろう。
「松田さん、またこの団体の山登りにきてね。いっしょに、また山を歩きたいわ」
赤名さんの声に、私は、「はい」と答えた。
これからいろんな景色を見たい。
耳の奥にジンと熱いものが込み上げてきた。
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ランドネ 編集部
自然と旅をキーワードに、自分らしいアウトドアの楽しみ方をお届けするメディア。登山やキャンプなど外遊びのノウハウやアイテムを紹介し、それらがもたらす魅力を提案する。
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