東京オリンピック1964を走った片倉シルク号 -レーススタート【東京2020特集】

自転車界にとって衝撃的だった1964年東京オリンピック、
それは日本の本格的なレース文化のスタートだった。
あの時、日本を背負った男が伝説のロードレースを走った。
そしてまた、熱狂が再び東京にやってくる!

スタート!

東京オリンピック個人ロードレース。1964年10月22日、午前10時。国旗をあしらった色とりどりのジャージを纏った1国4名、35カ国、計132名のレーサーが一斉にスタート。砂塵を残して一気に見えなくなった。コースは1周約24kmを8周回、194・832kmを戦う。高尾駅近くの甲州街道(国道20号線)をスタート、最大の難所は急勾配が500m続く高月。他4ヵ所の上りがあり、20号線以外は道幅も狭く、カーブが多いコースだ。「日本人選手は私を含めて4人で、大宮をアシストするという役割はあったんですが、よーいドンとなったら誰がどこにいるか分からなくなった。元より今みたいなチームプレイじゃないですから、当時は自分の力で走るしかない。平均時速は41km、場所によっては70km以上は出ていたと思う。いままで経験したことのない非常に速いスピードのレースでした」それでも、高速を想定したトレーニングを続けてきた大宮選手は、メルクス、ジモンディ、バジールらを含む120名にもなる一塊の集団の中で彼らをマークしながら1周目を走った、24kmの所要時間は、35分39秒。

(写真)個人ロードレース。スタート前の4人の日本選手たち。左から山尾裕、辻昌憲、大宮政志、赤松俊郎

まさかの転倒

しかし、試練は2周目で起こった。29km地点で、大宮選手は前を走る選手の転倒を避けきれず、落車に巻き込まれる。「落車して、あっと思って自分よりまず自転車を見たんです。大丈夫そうだと思って走りだしたんですが、リア変速機の調子が悪くて、シフターを動かしても変速しなくなってしまった。その辺に穴があったら入りたいような、そんな気分でしたよ。このためにやってきたのに、たった2周目で落っこちゃって終わりかよという。申し訳ないと思いました」。変速機はトップギヤに入ったまま。このままリタイヤするようなことになったらと、悲壮な気持ちで代車を探しながら走り続けた。「たぶん草かゴミが詰まっていたんだと思う、しかし走っているうちに変速機が調子を取り戻したんです、そこから必死になって巻き返した」第2集団の中で他の選手と先頭を交代しながら追い、34km地点でついに先頭集団に追いついた。喜びの沿道の声を浴びながら大宮も「よーしいけるぞ!」という気分になった。
大集団の先ではイタリアのツアニンを含む10名がリード。1分の差をつけて3周目に入る。しかしこの集団も4周目に集団に吸収される。6周目には、調子を取り戻した大宮も大集団から飛び出して、先行する3人を追う、5人の中に入り沿道を沸かせたが、これも7周目には吸収されてしまう。逃げをかます先頭は、激しく入れ替わりながらも、集団に追いつかれるという展開を繰り返し、結果的に最終周となったところで、また約80名の大集団となった。その中にもちろん大宮もいた。

当時撮影された貴重なカラー写真。スタート付近、甲州街道を疾走する選手たち。緩い下り坂で60km近いスピードが出ていたという

下はコースの難所で見物客には見所である高月の坂、選手たちがもがきながら登る。中央に見えるのが日本チームのジャージ。着ているのは山尾選手

メルクスの逃げ、そしてゴール

最終の8周目、逃げをうかがう選手の中から、まずイギリスのカウリーが飛び出す、それをメルクスが追う。坂が得意なメルクスは、最大の難所である高月の坂道でカウリーを追い抜き独走態勢になった。しかし、四谷橋付近で、集団が追いついてきたところで、バジールがスパート。大宮は「50 mぐらい後ろにいたと思います、見失ったというか、本郷の山のところでスパートをかけられ逃げられてしまった」という。ゴール付近は、雨が降り出していた。いよいよ最後となる、甲州街道の直線に入る高尾駅前の直角カーブで、センターラインに乗ったカウリーがスリップして転倒(メルクスと接触したとも言われる)。それを避けきれずバジールも巻き込まれる。「私はちょっと離れていたので、難を逃れて、50人の大集団でゴールに突進することになったのです」甲州街道いっぱいに広がった大集団は、怒涛のようにゴールに押し寄せる。ラスト300m、スプリント勝負となった大会を制したのは、イタリアのマリオ・ツアニンだった。大宮選手は、その後方わずか15mの同タイムでゴールした。しかし順位は35位。なんと1位から51位までが4時間39分51秒の同着タイムという結果となったのだ。「いい試合だった。雨が降っていて、ああ終わったという感じですね」厳しい猛特訓で鍛えられた肉体も、力を使い果たして、脚は痙攣を起こしていた。「最後まで走れたからよかったんですけれども、リタイアしてたら、人生変わってたんじゃないかな」。ただもし2周目の落車に巻き込まれなかったら……当時の日本人の誰もが思ったように、本人も考える。「やはり追うのに足を使っていて。たら、れば、の話になりますけど、もう少しいいレースができたんじゃないかと思います」。
しかし大宮政志のオリンピックは終わっていない。2020年、大宮コーチが育成した昭和一高出身の選手が東京オリンピックを走る可能性もあるからだ。「育てた選手が出てくれたら嬉しいですよね、西村大輝(現シマノ・レーシング)なんかも可能性があるんじゃないでしょうか。7年後、彼は25歳。私もあの時25歳でしたから」。56年の歳月を経て、伝説の選手の愛弟子が東京オリンピックでゴールスプリントをしたら、それは映画のような美談に違いない。

7周目犬目付近。先頭グループの大宮。2人先を行くメルクスの動きを伺う。コースは1周24km

甲州街道を緩やかに下る。11 km付近高月の勾配のある坂が難所。1周の中に上りは4カ所。ゴールは下りのスプリント

TEXT:BiCYCLE CLUB PHOTO:Shingo NITTA, Naoki OHOSH
出典・写真資料/「TOKYO OLYMPICS 1964」ベロクラブ東京製作、「東京オリンピック写真資料集」自転車文化センター所蔵
資料協力/横尾双輪館、長谷川自転車商会、自転車文化センター

(出展:『ハンドメイドバイシクルBOOK』)

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