東京オリンピック1964を走った片倉シルク号【東京2020特集】

自転車界にとって衝撃的だった1964年東京オリンピック、それは日本の本格的なレース文化のスタートだった。あの時、日本を背負った男が伝説のロードレースを走った。そしてまた、熱狂が再び東京にやってくる!

大宮選手が東京オリンピック1964で乗ったマシンが判明

東京オリンピック1964で大宮政志が跨った自転車はなんだったのか?マニアの間で長らくの論争の種だった。日本人選手は皆チネリだったという説と、大宮だけはシルクに乗ったという説。正しくは大宮はシルクに乗ったのだ。激しい練習と大会を共にしたのが、この自転車である。通説では大宮の自転車は、東京オリンピック後、各地のショップや展示会を転々としているうちに姿を消したということだったが、じつは片倉自転車工業の倉庫に保管されていた片倉の社長と飲み友達だった長谷川自転車商会の長谷川弘氏が会社の閉鎖時、購入したということである。
決定的なのは、トップチューブのシート近くにある楕円形の塗装が擦れた跡。こんな所が擦れるのは大宮の太腿ぐらいだ(下の大宮選手の写真を参照)。また残された写真の中に団体ロードスタート時の大宮の姿があり、見ると同じ箇所に同様の傷がある。取材時、当時の写真とシルク号の写真を見せると大宮氏は「たしかに乗った自転車の可能性が高い、よく見ればこのポンプにも思い出があるな」と赤いバーテープを巻きつけたシルカを指した。なぜシルク号を選んだのか?
という問いに大宮氏はこう答えた「機材には、まったくこだわりがなかったので、乗っていた自転車に乗った」。

大宮政志が苦楽を共にした片倉シルク号

大宮の太腿が擦れたトップチューブの独特な擦り傷。シート部はラグレス

シルクといえばラグレスだが、これはシルクラグと呼ばれるもの。ラグレスを行った上にラグ状のものをさらに被せた、バイラミネートラグのような構造

ハンガー部もシルクラグ構造となっている。剛性を確保する必要があったようだ

日本チームカラーである白ペースに日の丸の赤の胴抜きだったが、経年でかなり色は薄くなっている

リアメカはカンパニョーロ・レコード(資料ではグランスポルトだったと記録されている)。1963年にデビューし、東京オリンピックで最も使われたメカだ

鋼鈑製の2枚肩軽量フォーククラウンはシルク独自の技術

長谷川自転車商会の壁に掛けてあったシルク号。店主の長谷川弘氏は、しかるべき場所での保管と展示を望んでいる

東京オリンピック、国別団体ロードレース、スタート時の写真。手前にいるのが69番の大宮政志である。腿の下、トップチューブに楕円形の塗装の剥げた跡がある

日の丸を背負った日本で一番速かった男大宮政志

伝説のレースの伝説の選手

今から49年前の1964年10月22日。東京オリンピック1964の自転車競技最終日に開催された個人ロードレース。後の日本のレース機材や自転車競技文化そのものの発展を含めて、その原点とも語られるレースが、どのようなものだったのか、知る人はいまや少ない。そして大宮政志という日の丸を背負った伝説の名選手がいたことも。
64年のオリンピックで東京を走った選手の中には、かのエディ・メルクスやフェリーチェ・ジモンディらがいた。メルクスは、この年の世界選手権個人ロードレースを制し、オリンピックの翌年65年にプロへ転向、その後3度のダブルツール達成するなど、現在においても史上最強のロードレーサーであるのはいうまでもない。ジモンディも65年にプロへ転向後、初年にツールを制した。さらにはジロ、ブエルタというグランツールを全て総合優勝した数少ない歴史的選手である。オリンピックにおいてアマチュアであることが参加資格として厳格に定められていた時代、メルクスやジモンディは、国策でプロ化を阻まれアマに留められていた。彼らは、もちろん東京オリンピックの優勝候補に挙がっていたが、開催国日本の期待を一身に集めた優勝候補の1人がいた、それが大宮政志選手である。
大宮政志氏は、岩手県出身。日大時代にローマオリンピックの日本代表となり、そして東京オリンピック1964に出場、その後は競輪選手となり96年に引退。現在は75歳にして、東京立川市にある自転車の名門校、昭和第一学園高校の自転車競技部のコーチとして現役である(記事執筆時)。高校の放課後、練習を行っているという立川競輪場へ赴くと、バンクの中に大宮氏がいた。毎日、誰よりも早く競輪場に赴き、練習メニューをボードに書き込む。そして練習が始まると、70 代とは思えない張りのある声で、若い部員たちを叱咤激励している。そんな大宮氏に、64年の東京オリンピック1964の話を聞きに来たというと「またそんな昔の話を」という顔をされたが、当時のことは今でもよく憶えているという。
当時、国内無敵と言われた大宮選手。本人も「日本人相手の国内レースでは負ける気がしなかった」という強さを誇った。高校時代、スケートの夏季練習としていた自転車。たまたま出た岩手日報主催の70kmのロードレースで、大会記録を10分更新して優勝することに。以来、出場するレースでは「だいたいゴールして15〜20分後ぐらいに後続集団がやってくる」という具合だった。61年の秋田国体では、岩手県代表として走り、激しく転倒して車輪はポテトチップス状態になったが、自分で外して踏んで歪みを直して、なんと追いついて優勝を果たしている。
東京オリンピックの前年に開催されたプレオリンピックでは、フランスのバジール選手(この選手も本戦の優勝候補とされていた)をゴールスプリントで制して優勝している。「バジールにしてみれば、日本の小僧ぐらいに思っていたんでしょうが、ゴール勝負で勝っちゃった。それからですね、ひょっとしたら優勝できるかもしれないと思い始めた。それまでは、世界相手にどこまでやれるかわからないと思っていたんですが。その時から日の丸を背負っている気持ちでした」。つまり大宮選手は、世界一流レベルの選手と互角に戦い、世界戦でゴール勝負に持ち込める実力を持っていたのだ。

練習の日々

大宮選手が残した有名な言葉がある。「繰り返しの連続である単調な練習こそが大切なのだということを自覚し、更に、限界と思われる練習の壁を破れば、その先には必ず栄光がまっています」(ベロクラブ東京製作「TOKYOOLYMPIC 1964」より)。その実力とともに練習の鬼としても知られる。東京オリンピック1964代表となった大宮選手らは、高尾の薬王院下に設営されたプレハブの合宿所に泊まり込み、そこで2年間練習を続けた。「早朝に合宿所を出て、八王子を抜けて平塚に出て御殿場に行き、富士須走口を抜けて大月に出て高尾へ戻るという160kmぐらいのコースです。給水、捕食も乗ったまま、これを毎日午前中に走る。当時は、コーチがトレーニング法を勉強して選手を育成するということはなくて、選手が自主的な練習をしていました」。また東村山にある日産自動車のテストコースで、時速50kmで走る車の後ろについて、100km走り続けるという練習もよく行っていたという。「合宿所の部屋に、メルクスとジモンディ、あとバジールの写真を貼っていてですね、必ず破ってやると毎日睨んでいました。冬になると高尾には雪が積もってしまいますから、そうなると長靴を履いて山道をガーッと走っていました。心肺機能の強化に陸上トレーニングも懸命にやっていたんです」。こうして練習の成果も体調も、そして選手としてもピークに達した25歳の時、オリンピックがやってきた。

大宮政志
1938年生まれ岩手県出身。日本大学時代に世界自転車選手権、ローマオリンピックに出場。東京オリンピック後は、競輪選手として96年引退までに487勝している。

昭和第一学園高校自転車競技部。大宮コーチとなってから強くなり、2年連続高校総体総合優勝など好成績をあげる名門校に。全国から生徒が集まりプロも輩出。

出典・写真資料/「TOKYO OLYMPICS 1964」ベロクラブ東京製作、「東京オリンピック写真資料集」自転車文化センター所蔵
資料協力/横尾双輪館、長谷川自転車商会、自転車文化センター

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