峠の肖像 #2 三国峠・明神峠(静岡・神奈川・山梨)
小俣 雄風太
- 2022年08月31日
ただ無慈悲に続く急勾配に、前を見ることもおぼつかずハンドルバー越しに路面のヒビを数えていると、ふと目の間に無数のドーナツが浮かび上がる。ここは三国峠。峠道とは古来からさまざまな人々が行き交い、坂を隔てて別の国への境界となってきた。この三国峠もまた、三国、すなわち甲斐・相模・駿河の国を眼下に置く三国山に由来するが、歴史上この峠の名前が登場することはそう多くない。
あの日、この峠が世界に
三国峠の西に位置する籠坂峠がその理由である。須走と山中湖を結ぶ現在の国道138号線は、古来から甲斐と駿河を結ぶ交易の主要道であった。東海道ともつながっていた籠坂峠と比較して、その東の外れにあった山道の三国峠を行く人は稀だったようだ。
だが聡明にして自転車を愛する読者にあっては、三国峠と籠坂峠の名前を見て、昨夏の熱狂を思い出したかもしれない。あるいは峠の名前に心当たりはなくとも、タデイ・ポガチャルが、ワウト・ファンアールトが、リチャル・カラパスが勲章をめぐって争った彼の地であると知れば、たちまちにその光景が思い出されるだろう。
2021年7月24日、歴史にひっそりとその名をたたえていた三国峠が、世界中に知られた日である。少なくとも現代史において三国峠の名前は永遠に記録されることになる。東京五輪ロードレースが、ここを走ったのだ。
平均勾配10%、最大勾配20%
眼前に浮かび上がったドーナツは、急勾配のコンクリート路面にうがたれた円。激坂ではおなじみとはいえ、概して酸欠状態で見ることが多いからサイクリストにとってあまりいい風景とは言えない。こうした路面は登坂の始まり、あるいは終わりに配されることが多いのだが、この三国峠では登坂のまさしく中腹にこの最大勾配20%ドーナツ区間があるからたまらない。
それにしても、上り始めからコンスタントに10%以上の勾配を刻む三国峠は、このドーナツ区間に至るまでが厳しく、ドーナツ区間を過ぎても厳しいという酷な峠道である。この三国峠の登坂の途中には明神峠があるが、この峠は登山道の一角を占めるばかりで、路上にはバス停の名前の他にこの峠を示すものはない。つまり、明神峠に至ったとて上り勾配は一切緩まず、なおも果てしない山頂へ道が伸びていくだけ。辛い。ことに真夏の時分には、滴る汗が止むことはない。
草刈道とモータリゼーション
1820年に編纂された地誌「駿河記」には、三国峠について「是甲相駿の国境なるが故に其名あり。其径路皆草刈道なり」と書かれているが、峠は厳密には甲相、つまり山梨と神奈川の県境である。五輪のコース同様に静岡側から上ると、神奈川との県境を経て山頂で山梨との県境に至るといった具合。峠の名前の由来となった三国山は、その名のとおり3つの国の分け目となっている。
19世紀の前半にはさすがに「草刈道」だったこの道が舗装されたのは1964年7月のこと。同じ年には、富士スピードウェイの起工式が行われている。そう、五輪ロードレースのフィニッシュ地点となったあのサーキットである。
してみると、この三国峠が東京五輪のコースに組み込まれたのも必然であったかのように思える。今日、三国峠を自転車で上る者なら、道の下からエンジン音が響いてくるのをしばらく聞くことになろう。「峠の走り屋」が登ってくるのではと身構えるが、その正体は富士スピードウェイで1秒を削らんとするモーターアスリートとその愛車の唸り声である。
霧の中に五輪の面影を探して
国の境目である峠は、気候の分け目であることが往々にしてある。三国峠もまた例外ではないらしく、山頂が近づくにつれ周りに雲が立ち込めてきた。西に大いなる富士山を置き、東西に走る三国山稜には雲が溜まりやすく、上り口と山頂で天気が違うなんてことはざら。標高1000m超。肌に感じる空気が変わると山頂はそう遠くない。
ふと道端に、東京2020の面影を見つける。わずかばかりの観客がこの三国峠で世界屈指の選手たちを観たものと推察するが、その面影である。そのいくつかは、おそらくは当局によって削り取られていたが、かえってそこに真夏の熱狂があったことを思い起こさせる。
まともに前が見えないほどの霧中、山頂がどこかもわからないままに踏んでいると、急に雲が晴れた。
誰もが絶景に息を呑むレガシー
そこには別世界のような、夕日に照らされた慎ましい山頂があった。だが、三国峠の本懐は、この山頂ではなく、山中湖側へ500mほど下った先にある。おそらくは草刈道だった往時から、この峠を越えた者が目にしたであろう絶景。
三国峠を上るなら、ワールドベストの選手と自分を重ねるのがよい。苦悶の果てに選手への敬意が生まれ、そして自らには少しの失望を味わうことと思う。けれど、泰然とした富士山に飛び込むように下れば、そんなことはどうでもよくなる。きっと三国峠を走ったことを誰かに語りたくなるはずだ。そしてそこは五輪のルートでもあったことも。
そうやってレガシーは語り継がれていくべきなのだ。
三国峠(静岡県側からのアプローチ)
登坂距離18km
獲得標高1000m
平均勾配5%
三国峠を走ったギア
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- BRAND :
- Bicycle Club
- CREDIT :
- TEXT:小俣 雄風太 PHOTO:水上俊介
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