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東日本大震災のボランティア志願者へのメッセージ(フィールドライフ2011年春号掲載)

※この記事は『Field Life』2011年春号掲載の記事となります。

編集◎Field Life編集部
文◎ホーボージュン

あの日から、驚き、怯え、泣き、そして今、被災地のために何かをしたいと思っている心優しきアウトドアーズマンの君へ。

まばたきができなかった。一瞬たりとも目が離せなかった。足元には崩れた本や食器が散乱していたが、大きく見開いた僕の眼はテレビのライブ映像に釘付けだった。

目の前でクルマが、家が、人が、巨大な波に飲み込まれていた。ビルがへし折られて白い泡を吹き上げる。商店街に巨大な貨物船がつっこんでいく……。まるでSF映画のように、東北の港町がぐしゃぐしゃになっていった。

3月11日に東日本を襲った巨大地震と大津波は、東日本の広い地域にに壊滅的な被害をもたらした。地震発生から今日で半月が経とうとしているが、死者と行方不明者は2万7000人を超え、避難者数は24万人にも及んでいる。
また東京電力福島第1原発が引き起こした爆発事故と放射能汚染はいまだ収拾のめども立たず、恐怖と焦燥感が、ジワジワと僕らのまわりに押し寄せてきている。

「まじでヤバイよ……」
これが未曾有の危機だということは、キミも感じているだろう。
「自分も何かをしなきゃ……」
今すぐにでも被災地に駆けつけたいと思っている人も、きっと少なくないはずだ。

いま東北の被災地ではさらなる支援とボランティアの手を必要としている。炊き出しや救援物資の運搬、避難所でのさまざまな手伝いなど、人手はいくらあっても足りない。
その一方で東北自動車道が全面開通したこともあり、一般人も被災地へ直接入れるようになった。読者の中には、すでに現地入りの準備をしている人もいると思う。

でも、ちょっと待って欲しい。

憂国の念に駆られ、あるいはわき起こる熱い思いが抑えきれず、これから現地ボランティアに行こうと思っているキミに、いくつか話しておきたいことがあるんだ。
これはアウトドアーズマンとしてではなく、先輩ボランティアとしてのアドバイスだ。16年前の阪神大震災の時、僕はいまのキミと同じような衝動に駆られて現地に入り、瓦礫の中で2カ月あまりを過ごした。そこで(痛い思いをして)学んだ、とても大事な教訓だ。

阪神大震災のときに僕は単身で被災地へと向かった。

まずは僕自身が神戸で体験したことを詳しく書いておこう。
1995年1月17日早朝。マグニチュード7.3の直下型地震が兵庫県南部と淡路島を襲い、神戸一帯に甚大な被害をもたらした。いわゆる『阪神大震災』である。

当時の僕は東京に住んでいたので、その揺れを直接感じることはなかったが、17日の午後になると被災地の様子が東京のテレビ局でも中継されるようになり、今回と同じように僕の目はそれに釘付けになった。
ブラウン管の中で(そう。当時のテレビはまだブラウン管だった)、コンクリートのビルがぺっしゃんこに潰れ、阪神高速道路が倒壊した。それはまるでゴジラに踏みつぶされたジオラマの街のようで、にわかには信じがたい光景だった。

やがて神戸の西にある長田区という下町から火の手が上がった。長田には木造家屋や長屋が多く、家々は紙くずのようにメラメラと炎に包まれた。すぐに消防隊が駆けつけたが、上水道が分断され消火栓の水が出ない。水の出ないホースを持って炎の前で立ち尽くす消防隊員の姿が大きく映し出された。それは胸を掻きむしられるような悲痛な映像だった。

やがて炎は火災旋風を熾し、長田一帯を火の海に変えた。火災は須磨区や兵庫区にまで燃え広がり、6000軒以上の家を焼きつくした。真っ赤に燃える大地の向こうから、怖ろしいほど大きな満月が登ってくるのを、テレビの生中継で見たひとも多いはずだ。
死者の数は日を追うごとに増し、避難所には被災者が溢れた。ピーク時の避難者数は31万人。全国から救援物資が送り込まれたが、それを仕分けたり分配する人手が足りず、物資が行き渡らない。テレビはヒステリックに危機を叫び、被災地の窮状を訴えていた。それを見て、僕は居ても立ってもいられなくなったんだ。

そう。今のキミと同じようにね。

この時、僕は31歳だった。若く、健康で、エネルギーをもてあましていた。また当時は『パリ~ダカールラリー』というサバイバルレースの選手をしていて、そういう危機的状況を乗り切るためのスキルや経験をたくさん持っていた。というか、持っていると思い込んでいた。

地震発生から10日目の朝、テレビの前に座っていることに耐えきれなくなった僕は、ラリー用の大型オフロードバイクに一週間分の水と食糧とガソリン、そしてキャンプ道具一式を積み込んで単身で神戸へ向かった。道路は寸断されていたが、バイクだったので問題ない。僕は当時最も救援が遅れていると言われていた長田区へと入っていった。

そして僕は、愕然とした。
そこに広がっているのは、テレビで見た光景の何十倍もむごたらしい現実だ。家々は空爆されたように潰れ、焼け野原には焦げ臭い臭いが充満していた。長田消防署に隣接する工業高校は遺体の仮安置所になっていて、瓦礫の下から発見されたばかりの遺体が次々と担ぎ込まれていた。

まさに阿鼻叫喚。
そこらじゅうに“死”の臭いが漂っていた。それが焼け落ちたケミカル工場の臭いと混ざり、猛烈な勢いで鼻孔に流れ込んできた。僕はヘルメットを脱いだとたん、自分のブーツの上に吐いてしまった。テレビは流血を映さない。テレビは死臭を届けない。それは僕が生まれて初めて見る“地獄”だった。

ショック状態のまま、僕は長田区役所を訪ねた。区役所へ行けば「ボランティア受付」のようなものがあるかと思っていたのだ。
だが実際にはそんなものはなかった。区の職員も、災害対策本部の人たちもいまだに混乱していた。彼らもまた焼け出され、命からがら逃げてきた人なのだ。庁舎は避難所に入りきれない被災者で溢れ、疲れと焦りで、みな殺気立っていた。

とりあえず社会福祉課の職員さんを見つけ出し、ボランティアに来た、しばらくは滞在できるので何か手伝わせてくれと告げた。すると職員さんは「じゃあ、ボランティアのとりまとめをしてほしい」といった。
来てくれたのはありがたいし、人手は喉から手が出るほど欲しいが、受付をしたり、指示を出したり、仕事を振り分けたりする余裕が今はない。部屋を提供するので、できれば自分たちで自主的に動いて欲しい。それが区からのお願いだった。

わけもわからないまま、僕は首を縦に振った。
この日、長田区役所には僕の他に7人のボランティア志願者が来ていた。地元神戸から2人、大阪や長野から5人。しかし僕を含め、誰ひとりとしてボランティア活動の経験など持っていなかった。

なにもかもが破壊されていた。だからすべてを自分で作った。

この夜、僕は区役所の前にある小さな公園にテントを張った。街灯もなく、あたりは真っ暗だ。消防署と警察にひっきりなしに緊急車両が出入りし、パトライトの赤い光が焼け野原を不気味に照らした。
公園には何張りかテントが立ち、落ち着かない様子の若者がうろついていた。どうやらボランティア志願の若者のようだった。みんな怯えた目をしていた。そりゃそうだ。こんな戦場みたいなところに来たのはきっと生まれて始めてだろう。

意を決して声をかけるとみんなすぐに集まってきた。年齢は20代前半で、どうやら僕が一番年上のようだった。焚き火を囲んでお互い自己紹介をする。彼らは『ピースボート』という国際交流NGOと『SVA』という仏教系ボランティア団体と『JHP』というカンボジアで学校を作っている会のメンバーだった。
みんなそれぞれの団体の先発隊としてやってきたが、何から始めていいのかわからず、途方に暮れていた。被災地の現実はあまりにむごたらしく、積み上げられた問題はあまりに大きかったからだ。

とりあえず僕らは翌日から一緒に行動することにした。そして区から頼まれたとおり、まずはボランティアをするための「しくみ作り」を始めることにした。僕は拾った段ボールにマジックで『長田ボランティアルーム』と書いて、庁舎内の会議室の扉に張った。

まず最初に始めたのは情報収集だ。僕は災害対策本部から避難所一覧と区内の詳しい地図を貰うと、みんなで手分けしてそれぞれの避難所へ出かけ、いま必要とされる物資やニーズを細かく聞いて回った。
また、当時区役所の地下倉庫には続々と支援物資が運び込まれていたが、マスコミ報道の通り仕分け作業の人手が圧倒的に足りず、あまりうまく活用されていないようだった。そこで倉庫には専従の係を置き、仕分けと在庫整理を徹底した。

このロジスティック隊のリーダーには地元の元お坊さんが名乗りを上げてくれた。彼は地元の若者や顔見知りの被災者をうまく動員し、物資の動線を徐々に整えはじめた。

何日かすると長田のボランティアたちは少しずつ組織化され、働くしくみが出来上がってきた。
この時僕らのシステムの核にあったのは「リーダーミーティング」と呼ばれる毎朝の会議だ。毎朝庁舎内のボランティアルームに各団体やグループのリーダーが集まり、仕事の分配をするのだ。

みんなが集めて回った避難所情報やニーズは朝のうちにすべて集約し、共有する。同時に区や社会福祉協議会に寄せられた被災者からの要望もここで俎上にあげた。
寄せられるニーズはさまざまだった。倒壊家屋の片付け、トイレ掃除、炊き出し、猫の世話、散髪、話し相手……。そういったあらゆる案件を僕はすべてカード化することにした。
たとえばこうだ。

「本日11時。蓮池小避難所のオオタマサヨさん(71歳女性)を中央区の神戸大病院までお届け。車椅子と軽バンが必要。人員2名。迎えはご家族が行きますので不要」

そしてミーティングで僕がこのカードを市場の競り人のように高く掲げて読み上げ、対応可能な団体の落札(?)を促すのだ。落札したリーダーはカードを自分のグループに持ち帰り、自己完結で処理をする。責任の所在と指揮権ははその団体にある。
もちろん何グループかで協働することもある。朝のミーティングでは「ウチの物資に車椅子あるよ」「午前中ならクルマ出せるぜ」「俺は地元だから抜け道知ってる」というように、みんなで智恵を出し合った。

基本的にペンディングや「案件の持ち帰り」は許さなかった。災害時はスピードが命だ。すべてを即断・即決し、解決作が見えたらすぐにリーダーたちに動いて貰った。

いっぽう朝の段階で引き取り手のなかったカードは、ボランティア掲示板に貼りした。そうしておけばその日に被災地入りしたばかりの個人ボランティアにも「今ここで必要とされているモノ・コトは何か」ということがはっきりわかる。

これはとても重要だ。個人でやってきた一般人には、誰がボランティアで誰が地元民なのか、誰が情報をもっていて、誰が決定しているのか、自分はどこで何の役に立てるのか、それがまったくわからない。
でもこうして明文化して張り出してあれば、自分のやれることを自主的に見つけられる。そしてもし仕事が見つかったら、ピンナップされたカードを外し、掲示板日直に「わたし、これやります」と言えばいいのだ。その後に必要なモノの在処や補足は日直が教えてくれる。そういうしくみだった。

ボランティアにはさまざまな職種、技能、経験を持つ人がやってきたから、どんな難問でもたいてい誰かがなにかしらの解決策を持っていた。
いっぽう案件が終了したカードは、具体的な解決方法と結果を書き込み、ボランティアルームに戻すように徹底した。こうすれば「どこの団体が車椅子を持っているのか」とか「チェーンソーを扱えるのは誰か」というような有用な情報をみんながシェアできる。

組織されていない個人ボランティアにとって、また短期間に次々と人が入れ替わる被災地の現場にとって、これはとても大事なことだった。

「情報を集約し共有する」「すべてを明文化する」「朝に即断・即決する」「責任と指揮権を明らかにする」「主体的に動く」

こういった僕らのスタイルはかなりうまく機能するようになり、噂を聞きつけた他の地区のボランティアや専門の活動家までがミーティングに顔を出すようになった。

ちなみに後に国会議員となり、今回の東日本大震災では災害ボランティア担当の総理大臣補佐官を務めることになった辻元清美さんはこの頃の仲間だし、現在、宮城県石巻市をベースに救援活動をしている『ピースボート』の山本隆さんはこのしくみを僕と一緒に作ったメンバーだ。

「ボランティアお断り」と被災者から言われないために。

震災から1か月あまりたち、各種の交通機関が復旧すると、神戸にものすごい数のボランティア志願者がやってくるようになった。

このころマスコミ各社が連日ボランティアを取材し、その活躍を英雄のように賞賛したこともあり、ボランティアルームも毎日数百人もの志願者でごった返した。
後年の統計によるとこの年に被災地を訪れたボランティアは延べ138万人にも登ったという。そのため95年は「ボランティア元年」と呼ばれている。

しかしこれだけ数が増えてくると、美談ばかりでなくいろいろと困った問題が噴出した。ボランティアに来てくれた人のほとんどは善意と正義感に満ちた素晴らしい人だったが、なかには被災者から「もう帰ってくれ!」と怒鳴られるようなひどいヤツもたくさんいた。
ボランティア同士の揉め事もけっこうあったし、激怒した被災者グループがボランティア(と名乗る連中)に石を投げつけている場面を実際に目撃したこともある。

幸か不幸か僕は個人ボランティアを束ねるような立場になってしまったので、何千人ものボランティアたち、そして“自称ボランティア”たちとディープに関わることになった。その経験をもとにここでは反面教師として「困ったボランティア・ワースト3」を揚げておく。

1位・自己完結していないヤツ

ボランティア希望者の中には「メシはどこで貰えるんですか?」とか「僕のテントはどれですか?」という質問を真顔でしてくるヤツが山ほどいた。そういうヤツはテントやシュラフはもちろん、食糧も飲料水も持っていない。自分は無償で働くのだから、食事と宿泊は用意されて当然だと思っているのだ。

その想像力のなさに絶句するしかない。これは通常のボランティアじゃないのだ。何万人もの人が死んでいる災害地での救援活動なのだ。まずはそれを忘れないで欲しい。
アウトドアーズマンのキミには改めて言うまでもないことだと思うが、もしこれから現地入りするなら必ずテントとシュラフと調理器具一式を携行し、滞在日数分の食糧と飲料水を自前で持っていくこと。

いまも、東北の避難所には「一日におにぎりひとつ」というような苛烈な環境下に置かれている場所がたくさんある。だから僕ら災害ボランティアは配給の弁当や炊き出し、物資として届けられたミネラルウォーターなどには絶対に手をつけてはいけない。
また、夜寝る場所にもぜひ気を配って欲しい。屋根があって乾いた場所というのは、被災者のためのスペースである。彼らはプライバシーもない狭い空間でなんとかやりくりしているのだ。僕らには帰る家があるんだし、被災地にいるのはほんの数日間だ。だから自分は屋外にテントを張って寝よう。

もちろん支援団体の中にはボランティア用のテントやプレハブ、毛布などを用意したり、給食や炊き出しをする団体もある。でも基本は「自己完結」。被災地に負担をかけるのだけはやめて欲しい。

2位・自己陶酔しにくるヤツ

神戸にいたとき、被災地の避難所まわりで一番キツイ仕事は便所ボランティアだった。長田区の場合は電気の復旧はかなり早かったものの、水道の復旧には相当な日数がかかった。この間、水洗トイレが使えないので、被災者の方には便器は使わず、個室で新聞紙を広げその上に用を足して貰うようにした。この事後処理が本当にタイヘンなのだ。

ボランティア希望者はたいてい「なんでもします!」と言う。そのくせ便所ボランティアをお願いすると「いやあ、それはちょっと……」とか言って逃げてしまうヤツがじつに多いのだ。

こういった“自称ボランティア君”はたいてい自分のイメージしたカッコいいボランティア像(……たとえば家の修理とか、物資配給とか、被災者の話し相手とか)を持っていて、それを実現しにやってくる。被災者のためではなく、自己陶酔とか自己実現のためにくるのである。だからウンコにまみれたり、腐敗ゴミを仕分けたり、汚くてスポットライトのあたらない仕事をお願いすると極端に嫌がるのだ。

まあ、せっかくボランティアに来たんだから現地でいい思い出を作ったり、感動的な体験をして帰って欲しいと僕も思っている。でもやっぱり僕らが被災地で第一義に考えるべきは「被災者のため」だ。
自己陶酔や自己実現は別の機会に回そうぜ。

3位・勝手に倒れるヤツ

これは自分への戒めとして書く。じつは僕は神戸滞在中に何日間かぶっ倒れて寝込んでしまった。過労がたたって、風邪をひいてしまったのだ。これは完全に自分のミスだ。頑張りすぎてぶっ倒れた。

ボランティアが病気になると、被災地に大きな負担がかかる。病人を寒いテントや廊下に寝せておくこともできないから、看病のための暖かい場所や寝具が必要になる。ただでさえ混んでいる病院をよけい混雑させてしまう。また貴重な薬や医療品を消費する。そしてボランティアの看病のために(医師や看護師さんなどの)ボランティアが必要になる。本来はすべて被災者のために用意したモノなのに……。ホントにろくなもんじゃないのである。
だから健康管理にはじゅうぶん気をつけよう。体力のギリギリまでがんばるなんてもってのほか。被災地で勝手に倒れてはいけない。家に帰ってから寝込むべし。

燃え尽きないこと。多くを抱え込まないこと。

そんなふうに活動しながら、けっきょく僕は4月になるまで神戸にいた。いつのまにか、抜けるに抜けられなくなってしまったのだ。
こういう極限状況での生活が長くなると、いろんなことを体験する。僕自身にも、そして僕のまわりでも、本当にいろんな事が起こった。それを書くだけで一冊本が書けるほどだ。

そのなかからキミにどうしても話しておきたいことがある。
それは「燃え尽きないで欲しい」ということだ。

実際の被災地はテレビの映像で見るよりも遙かにむごたらしく、深刻で、衝撃的なものだ。きっとキミは、おそろしい恐怖と絶望感を味わうことになるだろう。被災地の現実はあまりに厳しく、キミにできることなど「無」に等しい。

そして悲しみというのは伝播する。被災者の悲しみは、僕らの想像を絶して深く、拭いようがない。

そんな中で長い間働いているとこちらまで精神的に参ってくる。知らない間にジワジワと弱ってくる。喜怒哀楽が激しくなり、感情のコントロールが効かなくなる。やがて無力感や脱力感にさいなまれ、どうしようもない自己嫌悪に陥ってしまう。

僕は一時期、ひどく深い穴に落ち込んでしまったことがある。イライラしてスタッフに当たり散らしたり、被災者と会うたびオロオロと泣いてばかりいたり、最後は自分のテントから外に出られなくなった。ハッキリ言ってかなり異常な精神状態に追い込まれた。
こういうことは、決してめずらしくない。とくに性格がまじめで正義感の強い人に多い。被災者のつらさや悲しみに自分がシンクロしてしまう。自分の心の中に多くのものを抱え込みすぎてしまう。長期ボランティアの中では「燃え尽き君」などと呼ばれていた。

こういうときの解決方法はひとつ。被災地を離れることだ。悲惨な現場というのは人間のすべてを飲み込む。いくらカラダを休めても、心までは休まらない。まずはいったん撤退して、悲しみを遮断すること。そして気持ちをリセットしてからもう一度ボランティアにでかければいい。

過度にのめり込まないで。キミはある日いなくなるのだ。

長くボランティアをしていると、被災者の人たちとも個人的に仲良くなる。なかにはまるで家族のような関係になる人もいた。僕らの仲間のなかには復興支援のために神戸に移り住んだり、ボランティアをきっかけに地元の人と結婚した人もいる。喜ばしい話だし、そういう人の深い愛情には心を打たれる。

でも残念ながらそれとは逆の現実を見ることもあった。たとえば被災者とものすごく深く付き合っていたはずのボランティアが、ある日突然一方的に関係を切ったりするのだ。

僕の知っているあるボランティアは誰にも何もいわず突然消えてしまった。噂によると彼はまったく別の災害ボランティアに向かったらしかった。避難所で彼と仲のよかったおばあちゃんから「最近見ないけど、○○さんはどうしているの?」と淋しい顔で聞かれたとき、僕はどう言っていいかわからなかった。
人と人との関係は、それぞれだ。

外野の僕がどうこういう話ではない。でも被災地の人間関係はとてもセンシティブだ。お互いのプライベートまで踏み込むような過度の同情やシンパシーは、もしかしたら控えたほうがいいかもしれない。少なくとも短期のボランティアの場合は過度ののめり込みはやめた方がいいと思う。そのあたりはひとりの人間としてキチンと考えること。

ボランティア後方支援も立派なボランティアだ。

神戸に入って1か月ほどたったある日、東京の友人が義援金を届けてくれた。数十万円の郵便貯金だった。バイク仲間やアウトドア仲間に声をかけて集めてくれたという。僕はありがたく頂戴し、日本赤十字社チームに渡そうとした。ところが彼は「違うよ。これは被災者への義援金じゃなく、ジュン君たちボランティアに使ってもらうために作った金だ」といった。

おどろいた。
本当におどろいた。
ボランティアを続けるには金がかかる。その間まったく収入がないし、活動費や滞在費がどんどん出て行く。それを覚悟で来ているのだが、現実的にはカツカツで、金の心配はずっと絶えなかった。だからこのお金は涙がでるほどありがたかった。僕やスタッフが長く被災地に留まりそこで働けたのは、仲間が作ってくれたこの金のおかげだった。

この基金を呼びかけてくれたのはカメラマンの山田周生さんだ。彼は使用済みの食用油で走る「バイオディーゼル車」で世界一周を成し遂げた冒険家でもある。
先日ニュースで知ったのだが、周生さんは今、バイオディーゼル車と天ぷら廃油カーで東北の被災地を回りながら、ボランティア活動を行っているそうだ。

今度は僕が後方支援をする番だと思っている。東京でガンガン金を作って、ぜひとも助けたい。
ボランティアというのは被災地でカラダを動かすことだけじゃない。ボランティアが頑張れるように力を出すのも立派なボランティアだということを、キミにはぜひ知っておいて欲しい。

東北を忘れないで欲しい。その気持ちを持ち続けてほしい。

最後にお願いしたいことは「どうかいまの気持ちを持ち続けて欲しい」ということだ。

未曾有の大災害を前に、キミは今、何かをしたいと思っている。自分も東北のために、被災地のために働きたいと思っている。その気持ちを今だけでなく、3カ月後、半年後、1年後、5年後も持ち続けて欲しい。

日本人は熱しやすく、冷めやすい。そしてどうしようもないほどマスコミ報道に左右される。残念ながらあと数カ月もすればテレビ番組はまたお笑い番組とバラエティに染まるだろうし、被災地であれほど悲痛な叫び声を上げていたテレビレポーターたちは、きっと次のトピックに群がることだろう。

神戸の時もそうだった。ある日を境に忘れられた。
それは95年3月25日のこと。東京で「地下鉄サリン事件」が発生したのだ。
この日以降マスコミ報道はオウム真理教一色に染まり、5月16日の第6サティアン強制捜査と麻原教祖の劇的な逮捕の瞬間まで、連日連夜の報道合戦が続いた。

神戸の震災復興のニュースはどこかへ吹っ飛び、東京では話題に上ることが少なくなった。同時にボランティアブームは潮が引くように後退し、あれほどいた“自称ボランティア”たちはどこかへ霧散してしまった。

今度の東日本大震災は、災害の規模も、復興までの道のりの厳しさも、阪神大震災を遙かに凌ぐものになると思う。だからぜひ、忘れないで欲しい。被災地を見捨てないで欲しい。長い支援を続けて欲しい。

現地でボランティアの手が必要になるのは今だけじゃない。それどころか、仮設住宅が建ち始め、被災者が避難所から自宅に帰るころのほうが片付けや手伝いに今の何倍もの人手がいる。3カ月後、6カ月後、1年後、3年後にもボランティアの力が必要なのだ。
だからなにもいま慌てて現地に行かなくていいから、それよりもその気持ちをどうか持ち続けてほしいと思うのだ。
いま僕たちの国は危機に面している。日本という国が沈んでしまうような巨大な危機だ。

ここを乗り越えていくのは、けっきょくは人の力だ。僕らがみんなで持てる力を出し合うしか、道はない。この国の未来は僕らの手の中にある。

何ができるのか、何をすべきなのかは人それぞれだけれど、僕らひとりひとりには必ずなにかの“役目”があるはずだ。いまはその役目を果たすことに、一生懸命になるしかない。
僕は僕の役目を果たそうと思う。

キミもどうか頑張って欲しい。

2011年3月27日
ホーボージュン

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PROFILE

フィールドライフ 編集部

フィールドライフ 編集部

2003年創刊のアウトドアフリーマガジン。アウトドアアクティビティを始めたいと思っている初心者層から、その魅力を知り尽くしたコア層まで、 あらゆるフィールドでの遊び方を紹介。

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