渋丿湯から天狗岳、冬の八ヶ岳ブルーに吐息を漏らして
PEAKS 編集部
- 2020年01月22日
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“空が青い”なんて当然だ。“自然は偉大”と同じくらい、それはわかりきったことだった。でも、冬の八ヶ岳の空はとびっきりに青いという。空気中の水蒸気が減った空に、深い紺碧が澄みわたる。この目で真相をたしかめるために、冬の八ヶ岳の入門ルートを往く。
歩きだしから先行き不安な雪山デビュー。
北八ヶ岳の針葉樹林、といいたくても、そこはまだ渋丿湯といったほうが近い。極楽な温泉処に背中を向けて、2600m級の白き頂へ。雪山デビューに勇んで歩きだすことほんの数十m。沈黙の森を情けない叫びが一閃した。
「さ、笹倉さーん!」「いやー、気持ちいい天気ですね」「ちょっと待っててください」「ど、どうしたんですか?」「クランポンが外れました」「えっ?」「クランポンが外れました」「はっ?」
積雪期の八ヶ岳を編集部員が体験取材する。雪山での経験が浅いなりの目線で、シーズンならではの魅力や苦労を紹介する。行き先は入門にぴったりなベーシックルート、渋丿湯から天狗岳。もちろん、心強い山岳ガイドの指導を仰ぎながらというスタイルで。
そんな企画が会議で固まったとき、編集担当の欄にはぼくでない名前があった。せっかくだから行ってみたかったなという惜しさと、どこかホッとするような安堵感。内心ではふたつの相反する気持ちが同居していた。だって寒いし、なんとなく怖いし、夏山とは違った装備を買い足さないといけないし。
天候の変化に要警戒な雪山よろしく、企画の雲行きが急変したのは取材5日前のことだった。担当の退社により、天狗岳の山頂を踏む大役が急遽ぼくに回ってきたのだ。都合のいいことに、企画趣旨どおり雪山ビギナー。大慌てで雪山装備を買い揃えたものの、肝心のクランポンの履き方すらなっていなかったなんて。ほかの編集部員にバレなくてよかった……。
「どれどれ? じゃあ私が説明しながら、装着し直しましょうか。片足ずつ前に出してください」
見かねた笹倉さんが、慣れた手つきでぼくのブーツにクランポンを結びつけていく。グッグッと締め上げられた足もとは見違えるような強度。それはすなわち安心感に満ちることと同じである。
「す、すみません」「タイミングが歩きだしでよかったということにしておきましょうか(笑)。稜線でこんなことになったらもう一大事ですから」
笹倉さんの言うとおり。稜線でクランポンが外れでもしたら、急峻な斜面を何百mも転がり落ちていったに違いない。それを取りに斜面を下りるなんてもってのほか。それどころか下山することもできず立ち往生して、あわや……。
「ふぅーっ」。深呼吸のつもりでぼくは息を吐いた。でも、それは情けない自分へのため息だったかもしれない。
36℃の体温から吐き出された息は、氷点下近い外気で急激に冷やされることによって白い色調を獲得する。おぼろげに森を漂う吐息が、先行き不安な山旅と重なった。
無意識だった“歩くこと”が意識的な所作に変貌した。
サッサッサッというふたりの足音が静かに響きわたる。雪に覆われた登山道は歩きにくいと思いきや、かえって段差が小さくなり、足が伝える着地の衝撃も小さいようだ。さながらダメージを吸収してくれるクッション材といったところだろうか。
「内田さん、どんなことを意識して歩いていますか?」。あ、歩きながら考えていることだって……? そんなの、強いていえば食べものくらいだ。関西人の笹倉さんにとっては、ぼくのトークスキルなんて雪山登山スキル以上に話にならないレベルだったということだろうか。正直に告白するしかなかった。
「黒百合ヒュッテに着いたらコケモモマフィンが楽しみだなってことくらいですかね……」「ハハハッ。そういうことではありませんよ(笑)」「ど、どういうことですか?」「クランポンには慣れていないわけですよね。転倒しないためにも、しっかり雪面にクランポンの爪が刺さるように歩きましょう」
靴底を雪面と平行に向けて、クランポンの爪すべてが刺さるように置くフラットフィッティングが雪山歩きの基本だという。斜度が増したら、つま先を開いたダックウォーク。より大きな斜度や段差に出くわしたときには、足を交差させるダイアゴナルに、片足のつま先だけを外側に向けたスリーオクロック。
ハイハイから卒業したての赤ちゃんじゃあるまいし、こんなにも“歩くこと”に注意を払わないといけないなんて。ぼくなんて本当になにも考えていなかった……。
ガッガッガッと今度はたしかな音を立てながら、調子を上げて森を進んでいく。なるほど、さっきまでとは見違えるように歩行が安定した。これならちょっとした段差でも苦にならない。普段とは少し異なる筋肉の疲労感は、はじめて出合った雪山との興奮も伴っているようである。
渋丿湯から1時間程度で、八方台分岐に到着した。黒百合ヒュッテまでのおよそ中間地点。クランポンを履いて歩くことに少しずつ慣れてきてスピードが上がったせいか、気温にそぐわぬ汗をかいていた。
天気がいいうえに、ずらりと並ぶ針葉樹によって、冷たい風に吹かれることもない。ぼくは休憩とばかりにバックパックを下ろすと、グローブを外し、アウターのファスナーを一気に下ろした。
「はじめてなので不安でしたが、太陽が出ているうえに風はなくて。天気がいいのでなによりです」「明日、稜線に出るときに風がなければいいのですが。でも、このまま雲が出なかったら、きれいな『八ヶ岳ブルー』が見られるかもしれませんね」
八ヶ岳ブルー――それは聞き覚えのある6文字だった。わざわざ名前がつくほどに特別な色。出発前に写真で見た冬の八ヶ岳の空は、たしかに夏山と異なる色味を表出していた。明日になっても雲がなければ、稜線を上がって空へと近づけば、美しい色の空が見られるのかもしれない。それは天狗岳登頂への期待を飛び越えて、ガッガッガッという足音をいっそう強くさせるものだった。
中間地点をすぎても、それまでと変わらずにシラビソの森が続いていく。渋丿湯から黒百合平、すなわち黒百合ヒュッテまでは、残念ながら景観の変化に乏しいというのが実情。それでも、木々の枝葉をすり抜けた陽光が、雪面に鮮やかな紋様を描いている。さながら真っ白なキャンバスだ。
やがて、雪面からの照り返しだけでなく、頭上から降り注ぐ陽光もしっかりと浴びるようになった。登山道の傾斜や段差もまばら。四方八方を針葉樹林に囲まれた森を抜けて、やっと黒百合平に到着したようだ。出発時に13時だった腕時計は、それから2時間進んだ時刻を示している。
黒百合ヒュッテの扉をくぐり、バックパックを置き、ブーツを放り投げる。今日はここまで。もうお役御免なのだ。テント泊装備でないため荷物は軽量そのものだったが、デビュー戦を果たした両足が休息を訴えている。
体を御座に預ければ、2時間続いた緊張が一気に弛緩した。「予想より歩けたように思います」「渋の湯からここまでは雪山を体験するのにちょうどいいルートなんですよ。でも、明日は稜線ですから。6時半には出発して、滑落に注意しながら歩きましょうね」
そうだった。今日はベーシックのベの字もいいところなスノーハイキング。次に朝が来たら、冷たい風に打たれ、滑落するかもしれない稜線を歩かなければいけないのだ。緊張を思い出したぼくは体を起こすと、落ち着かない気持ちに駆られた。
「夕食までどうしましょうか?」「あれ、到着したらなにか食べるんじゃなかったんですか?(笑)」
東の地平線から光が射す朝。
世界は反転し、新しい日がはじまった。
翌朝4時25分。シラビソの森は闇夜に埋もれて息を潜めている。黒百合ヒュッテの遥か上空では、大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。時刻は出発の2時間前。それでも朝日鑑賞に出かけるべく、前夜に打ち合わせをしたとおり、むしろその5分前に目を覚ましたようだ。
ウエアに袖をとおし、ヘッドライトを装着。外出の準備を進める過程にはいっさいのムダが見られない。その所作の主は隣で枕を並べていた笹倉さんのほうである。
一方、ぼくはといえば、全身が布団に覆われたまま。軒下で固まった氷柱のように、視線を部屋の天井に固定して動かないでいた。
「朝が来ちゃったよ……」。今日はこれから朝日を眺めるべく散策に出て、朝食をとったら天狗岳へと出発しなければいけない。樹林帯ハイキングの昨日から打って変わり、凍てつく風にさらされる稜線歩き。
それがたとえ“冬の八ヶ岳の入門ルート”と謳われていようとも、難易度の評定なんて他人が下すもの。はじめて雪山を歩く登山者にとっては、〝初体験〞という揺るぎのない事実が横たわるのみである。
「ふぅーっ」。ぼくは天井に向かってため息を漏らした。気温計はマイナス10℃をも下回ろうとしている。にごったような白い吐息に“畏れ”ともいうべき感情を投影した。
人間や動物による騒めきが存在しない、無音に支配された夜明け前の森。そこにガタガタという音が響きわたった。黒百合ヒュッテの扉を開き、闇夜に一歩を踏み出す。太陽なき世界は、日中とはまるで異なる寒さで張り詰めていた。天狗岳を望めるちょっとした丘に登ろうと、ぼくの右手にははじめてアックスが握られている。
どれだけの時間を丘の上ですごしただろうか。暗がりのなか、風に打たれながら。それは3分間かもしれないが、まるで永遠のようにも感じられた。寒い、痛い、もう戻ろう。東の空が明るくなりはじめたとき、思考回路は単一化を極めようとしていた。
黒百合平に届けられた、この日最初となる陽光。それは凍てついた一帯を溶かすに十分なものだった。漆黒から紅へと、空がグラデーションとなって瞬く間に変化を見せていく。シラビソの森や雪面も陽光を照り返し、紅に染まってゆく。気づけば満月が消滅。世界は再び反転したのである。
「マジックアワーだ」。朝日は不安にまみれたぼくの心をも溶かしていた。山小屋に戻りたい、それも一刻も早くとあれだけ願っていたにもかかわらず。それまでの寒さを反動に、体を喜びで満たし、目の前で起きる奇蹟に解像度を上げていく。南を見やると、天狗岳の双耳峰が紺碧の空を衝いていた。
水蒸気が減少した冬の八ヶ岳の空。
その深い色は“八ヶ岳ブルー”と呼ばれている。
「内田さん、アックスの突き刺し方が甘いですよ!」「あ、はい!」「クランポンも斜面を蹴りつけるように!もっと強く!」「は、はい!」。マジックアワーの祝福から2時間強、ぼくは天狗岳へと延びる稜線にいた。
黒百合ヒュッテの朝食では、茶碗山盛りによそった白米をおかわり。昨日はなっていなかったクランポンも、グッグッとブーツに結び付けた。黒百合平の樹林帯を歩き、5分もすれば中山峠に着く。ここから天狗岳へは南に向かって稜線を進めばいい。東の斜面を下りていけば、雰囲気満点のしらびそ小屋、湯船に浸かれる本沢温泉へと行けるというのに……。
稜線に出てようやく、八ヶ岳の美しい山容が東西南北に広がった。さすがに単調に感じていた、シラビソ続きの景観ともおさらばだ。だが、そんな喜びも束の間に、遮るものがなくなったことでブワーッという突風がいきなりぼくに打ちつけた。
「風が強くなりましたね。これだと風速20m/sはあるでしょう」。笹倉さんの目つきが少し険しくなった。なにしろクランポンを履いて2日目、アックスに至っては初日というビギナーが後ろにいるのだ。
でも、そんな懸念をよそに、空は晴れ晴れとしている。いくらかの黒ずみがあるかのような、紺碧という名前が相応しいほどに深い色。これが八ヶ岳ブルーというやつなのだろうか。寒さによって空気中の水蒸気が極端に減少することで見られる、澄みわたるような空。ぼくは宇宙に吸い込まれるかのような錯覚を覚えながら、体を高みへと持ち上げていく。
アックスを斜面に突き刺す。しっかりと刺し込んでいるつもりだが、どうも力が足りないようだ。えいやっと斜面に埋め込んで、1歩2歩。またアックスを振り下ろして、1歩2歩。
きっかけがないために遠ざけていた雪山だけれども、なるほど、これならいつもの登山の延長線上で楽しむことができるだろう。もっとも、無雪期に十分な経験があればのこと。そして、ビギナーであれば、笹倉さんのような心強いリーダーの存在も前提だ。
ベーシックルートの評判よろしく、黒百合ヒュッテを出発してから1時間半足らずで山頂に立つことができた。東天狗岳、標高2640m。ここより山頂が6m高い西天狗岳が隣り合い、天狗岳は双耳峰となっているのだ。
「笹倉さん、ありがとうございました!」「西天狗岳は見送ったほうがいいですね。鞍部なら30m/sを越えているかもしれません」「そうですか……でも、八ヶ岳ブルーが見られてよかったです」「知ってます?南八ヶ岳ではもっときれいなんですよ」
たおやかな北八ヶ岳に背を向けると、雄大な山々が見えた。爆裂火口の硫黄岳、最高峰となる赤岳に阿弥陀岳。数日前には仕方なしに雪山取材を受け入れていたにもかかわらず、雪の南八ヶ岳に新たな山旅を想像するぼくがいる。
「ふぅーっ」。登頂の安心感からこぼれた吐息が、八ヶ岳ブルーのなかを南に向けて泳いでいった。
>>ルートガイドはこちらから
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文◉内田洋介 Text by Yosuke Uchida
写真◉宇佐美博之 Photo by Hiroyuki Usami
取材期間:2017年4月13日、14日
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PROFILE
PEAKS 編集部
装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。
装備を揃え、知識を貪り、実体験し、自分を高める。山にハマる若者や、熟年層に注目のギアやウエアも取り上げ、山との出会いによろこびを感じてもらうためのメディア。