筆とまなざし#244「ある日曜日。木曽駒ケ岳へ1泊2日のスケッチ山行へ(後編)」
成瀬洋平
- 2021年09月23日
一枚の絵には、風景の変化だけでなく、絵描き自身の心の変化も投影されている。
夕方になってもガスは晴れず、太陽が沈むと小雨が降り出しました。翌朝、目を覚ましてテントの外を見ると降り続いた雨は止み、澄んだ夜空が広がっていました。東の空が微かに明るくなっていました。急いで朝食を済ませ、画材を持って頂上へ向かいました。日の出にはまだ間に合う。羊毛のような雲海が少しずつ紫色に染まり始めていました。頂上に到着すると風が避けられる岩の影に腰を下ろし、みるみるうちに色彩を変えてゆく東の空を描くことにしました。空の色に呼応するかのように、雲は瞬間ごとに色や形を変化させていきます。明度を増す空と、それと対照的な深い群青の影を落とす雲の下の風景。そんなことを思いながら描いていると、強い光線が射抜くように頂上を照らしました。目の前で繰り広げられるドラマチックな光景。けれど、いま描いているのは日の出前の風景です。つい数分前の記憶をたよりにすばやく着色していくのですが、気温が低いので絵の具が乾かない。やっとの思いで描き終わるとすっかり太陽は昇り、ほかの登山者もいなくなって静かな朝の風景が広がっていました。西側に移動すると頂上直下のガスが虹色に染まっているのに気づきました。手早くその風景をスケッチし、テントに戻りました。
下山もロープウェイを使ったのではおもしろくない。そう思って歩いたことのない伊那前岳経由で下ることにしました。伊那前岳の頂上でバックパックを下ろして休憩していると、尾根の南側からガスが湧き立つ風景が目に止まりました。しばらくその風景を眺めていると、風景がすっと自分のなかに入ってくるのを感じました。描きたい。残り一枚になったスケッチブックを広げました。
ときおりガスにかき消される尾根。光を浴びて明るく輝いたり雲の影になって色を落とす樹林帯。「一瞬の山の美しさを捉えた」とよくいわれるけれど、それは写真の場合であって、絵は絵描きが描いている数時間、あるいは数日の刻一刻と変化する風景が一枚の絵となって表現される。そこには、風景の変化だけでなく、絵描き自身の心の変化も投影されている。描き始めてどのくらい経ったころでしょうか、西から湧く雲が次第に暗さを帯び始めているのに気がつきました。あまりゆっくりしていると雷がやってくるかもしれません。最後に描いた一枚を「雲湧く稜線」と名付け、描いたばかりの尾根を足早に下って行きました。(終わり)
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