イェジ・ククチカ 【山岳スーパースター列伝】#13
森山憲一
- 2022年03月29日
文◉森山憲一 Text by Kenichi Moriyama
イラスト◉綿谷 寛 Illustration by Hiroshi Watatani
出典◉PEAKS 2017年12月号 No.97
山登りの歴史を形作ってきた人物を紹介するこのコーナー。
かのラインホルト・メスナーの最大のライバルとして立ちはだかったポーランドの鉄人を紹介。
イェジ・ククチカ
世界で初めて8,000m峰14座をすべて登ったのは、イタリアのラインホルト・メスナー。この名を知っている人は多いのではないだろうか。
では、2番目に14座完登を果たした人は?
この問いに答えられる人は、メスナーを知っている人の100分の1もいないだろうと想像する。
その不運(?)な登山家の名は、イェジ・ククチカ。1980年代に活躍したポーランド人である。
メスナーが14座完登を果たしたのは1986年。ククチカは翌年の1987年。メスナーが16年かけて達成した記録に、わずか8年で猛追をかけたが、ぎりぎり1年間に合わなかった。
その後、メスナーは人類初の偉業を成し遂げた登山家として世界的なヒーローとなり、著書は各国語に翻訳されて読み継がれ、講演で世界を飛び回り、古城を買い取って優雅な生活を送っている。一方、ククチカは、母国ポーランドでこそ国民的英雄になったが、世界的な知名度はメスナーに遠くおよばない。
何事も1位と2位の間には越えられない高い壁があることが常。ククチカが1年早く、メスナーより先に14座達成を果たしていたら、歴史はどうなっていただろうか。
ただし、一般的な知名度ではメスナーに圧倒的な差をつけられたものの、コアな山ヤの間では、ククチカの評価は決して低くない。それどころか、登山家としての実力はメスナーより上だったという見方が一般的だ。
メスナーは14座完登を果たしただけでなく、世界で初めて8,000m峰を酸素ボンベなしで登ってみせた人間であり、無酸素単独という究極のスタイルでエベレストにも成功している。ヒマラヤ登山に革命を起こした人物であることは間違いないのだが、14座の半数以上はノーマルルートからの比較的平凡な登頂である。
対してククチカは、初めて登った8,000m峰のローツェをのぞけば、残る13座はすべて新ルートか冬期に登頂している。困難度でいえばメスナーの14座よりもはるかに難しく、しかもそれをメスナーの半分の8年で成し遂げている。登山の内容でいえば、メスナーを上回る猛烈なパフォーマンスなのである。
ククチカが生まれたのは1948年。ポーランドという国は高い山が少なく、最高峰リスィ山でも2,499m。しかも当時は旧ソ連傘下の共産国家で、国外登山も自由ではない時代だった。自由になる外貨も少なく、ククチカらの世代は、煙突修繕の高所作業でお金を貯め、陸路で行けるアフガニスタンなどの山を目指した。
よりお金がかかるヒマラヤへは、イギリスなどの外国人クライマーと組んで、装備を調達してもらう代わりに母国から食料を持ち込んで資金を節約した。しかしそのころには、ヒマラヤのめぼしい山々は欧米や日本、中国などの隊に登りつくされ、「おれたちは乗り遅れた」という意識が強かったのだという。
そうしたなかで自分たちの存在を表現するにはどうするか。そこでポーランドのクライマーがターゲットとしたのが冬期登山だった。春や夏よりはるかに自然環境が過酷な冬のヒマラヤは、まだあまり登られていなかったのだ。
極寒の烈風に打たれ、深い雪に苦しめられながらじりじりと山頂を目指すマゾヒスティックな冬期登攀。スマートな速攻登山を旨とする西欧のクライマーがいやがるこうした登山に、ポーランドの登山家は積極的に取り組み、次々に成果を打ち立てる。
その泥くさくもマネできないスタイルは世界の登山家から畏れられ、「冬期登攀のポーランド」の名は不動のものとなった。ククチカはそのエースとして破竹の進撃を続けていたわけである。
その努力も虚しく、華やかなタイトルはメスナーにさらわれた。落胆したはずのククチカは、意趣返しのつもりだったのか、メスナーが「21世紀の課題」と呼んだローツェ南壁に挑む。そこでロープが切れて転落死してしまう。1989年のことだった。
この後、あれほど猛威をふるったポーリッシュ・クライマー旋風は急速にしぼんでしまう。ククチカの名も過去のものとなり、時を同じくして、国家は民主化して時代は変わった。
以降、ポーランドからはこれといって名のある登山家は登場していない。
イェジ・ククチカ
Jerzy Kukuczka
1948年~1989年。ポーランド出身の登山家。同世代のヴォイテク・クルティカやクシストフ・ヴィエリツキなどと並んで、ポーランド登山界に黄金時代をもたらしたひとり。1987年に、世界で2番目に8,000m峰14座全山登頂を達成した。1989年にローツェ南壁で墜落死。愛称は「ユレク」。
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PROFILE
PEAKS / 山岳ライター
森山憲一
『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com
『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com