小林喜作 【山岳スーパースター列伝】#18
森山憲一
- 2022年05月03日
文◉森山憲一 Text by Kenichi Moriyama
イラスト◉綿谷 寛 Illustration by Hiroshi Watatani
出典◉PEAKS 2017年6月号 No.91
山登りの歴史を形作ってきた人物を紹介するこのコーナー。
槍ヶ岳の登山を変えたひとりの猟師が今回の主役である。
小林喜作
燕岳から槍ヶ岳に続く道は、「表銀座」と呼ばれ、北アルプス屈指の人気縦走路となっている。この道を拓いたのが、今回紹介する地元の猟師、小林喜作である。
表銀座コースの途上、大天井岳の近くに設置された肖像のレリーフを見たことがある人も多いだろう。ハチマキを巻いた丸顔のおやじさん。表銀座は、この人のほとんど独力といってもいい働きによって拓かれた。
現在では「喜作新道」とも呼ばれているこの道が開通するまで、槍ヶ岳へのルートは、大天井岳から常念岳方面に行き、いったん槍沢に下りてから槍ヶ岳を目指すというものだった。距離的にも標高差的にもずいぶんムダの多いルートであり、それゆえに、当時の健脚の人でも槍ヶ岳までは3泊4日かかるのが普通だったという。
いまでこそ槍ヶ岳はそれほど難しい山ではないが、喜作新道が開通した大正9年(1920年)までは、山奥のさらに奥にそびえる秘境だったのである。喜作新道の開通によってそれが1泊あるいは2泊で行けるようになったのだから、そのインパクトは大きかったはずだ。
すでに100年ほど前の話で、いまとなっては全然「新道」でもないのだが、「喜作新道」と呼ばれているのはそういう歴史による。
小林喜作は、穂高町に住む猟師。燕岳や常念岳、槍ヶ岳周辺を猟場として、クマやカモシカ、ウサギなどを捕って暮らしていた。猟の腕前は伝説的であったらしく、体力も抜群で、その山での強さを頼って、登山ガイドもよく頼まれていた。
時代は、大学山岳部を中心に、北アルプスにも近代登山が急速に広まりつつあるころ。喜作は、槍ヶ岳直下に山小屋を建てれば儲かるのではないかと思いつく。そこで、猟で使っていた岩小屋を整備して殺生小屋(現在の殺生ヒュッテ)を建設する。
さらに、殺生小屋に登山者を送り込むためのルートとして喜作新道の開削も始める。つまり表銀座ルートは、山への思いから拓かれたルートなのではなく、自身の商売繁盛のために作られた道なのだ。
こういう面ばかりがクローズアップされ、喜作は毀誉褒貶が絶えない人物でもある。「小林喜作は金にガメツい男」という人物評も一部で定着していた。
喜作は、殺生小屋完成の翌年、1923年に雪崩で遭難死しているのだが、それも、獲物の取り分をめぐって争いになった結果、猟仲間に殺されたのだという「他殺説」まであるほどだ。
一方で、喜作によくしてもらったという証言も数多く残っている。いったいなにが小林喜作という人物の真の像なのか、まったくわからない。ここは登山者としては重要である。なにしろ、自分がいま歩いているこの道が、強欲な男の金儲けのために作られた道だとなれば、目の前に広がる美しい風景も台なしだからだ。
真相はすでに薮のなかであるし、そもそも人物像というのは各人の胸のなかにあるものでひとつではない。人はいろいろな見方があるのがむしろ当然ともいえる。
どうも、喜作は有能すぎる人物であったようだ。猟の腕前は最高なうえに、事業家としての才覚にも秀でていた。時代の変化を敏感に察知し、山小屋や登山道の建設を着想。その難工事をやり遂げる実行力。
ガイドを頼まれると通常の3倍や4倍の料金をふっかけたというが、それはぼったくりというわけではなく、本業の猟に出ればそれくらいの収入になるのだから当然でしょ、ということであったらしい。喜作にとっては山は仕事の場。ビジネスライクにいっただけである。
レリーフや写真では木訥なおやじさんにしか見えない喜作だが、かなりの合理主義者であったようだ。仕事ができるうえに言うことは正論。そういう部分が周囲のねたみを生んだということなのだろうか。
喜作の死後、殺生小屋は人手にわたり、小屋への登山者直送ルートとして開削された喜作新道も、現在は殺生ヒュッテを通らないコースが主流になり、むしろライバルの槍ヶ岳山荘への直送ルートとなっている。
喜作新道の開設は槍ヶ岳の登山を大きく変え、表銀座は北アルプスを代表する縦走コースにもなったが、喜作はそんなことには全然満足していないのかもしれない。
小林喜作
Kobayashi Kisaku
1875年~1923年。北アルプス常念岳の麓にあたる牧(現在の長野県安曇野市穂高牧)出身の猟師、山案内人。1920年に喜作新道を開削。1922年に、槍ヶ岳直下に殺生小屋(現在の殺生ヒュッテ)を開業した。1923年3月、黒部渓谷棒小屋沢で猟仕事中に雪崩によって遭難死。
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PROFILE
PEAKS / 山岳ライター
森山憲一
『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com
『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com