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<近代登山を開拓した西の親玉> 今西錦司 【山岳スーパースター列伝】#44

文◉森山憲一 Text by Kenichi Moriyama
イラスト◉綿谷 寛 Illustration by Hiroshi Watatani
出典◉PEAKS 2015年8月号 No.69

 

今西錦司

山登りの歴史を形作ってきた人物を紹介するこのコーナー。
今回は、登山と学術の両面で名をなし、日本の近代登山史に欠かせないこの人物。

 

戦前の日本の登山界は、大学山岳部がすべての頂点に立っていた。このころに活躍した登山家といえば、たいていどこかの大学山岳部員であったし、北アルプスの剱岳や穂高岳などの主要なルートも、この時期の大学山岳部によって開拓されている。たとえば穂高に慶應尾根という尾根があるが、ああいうのはすべて初登攀した大学の名前なのである。  

戦前といえば大学生はいまとは比較にならないほどのエリートであり、裕福でもあったのだろう。日々の生活に精一杯の庶民とは違って、山登りなどという道楽に時間とお金を費やす余裕があったということなのだと思う。  

なかでもとくに活躍が目立ったのは、慶應義塾、早稲田、成蹊、立教など、首都圏の大学。しかし西日本においてひとり気を吐く異質な大学があった。京都大学である。

「より困難へ」と進んでいく首都圏の大学とは少しムードを異にし、このころから朝鮮や中国など登山の中心地ではない場所に目を向け、「より未知へ」という志向が京大の特徴だった。この中心人物だったのが今西錦司である。  

今西錦司といえば、独自の「棲み分け理論」で知られる生態学者なのだが、それは本業とはいえ今西のひとつの面にすぎない。もうひとつの面は登山家としての姿であり、このふたつは同等な重さをもって今西の中に存在している。いや、私には、登山を生業として生きていくために学者という職業を選んだように思えてしかたない。  

1902年生まれの今西は、北アルプスがまだ人跡未踏の場所だらけだった時代に登山を始めた。いまでは有名な剱岳の源次郎尾根。ここの初登攀は今西である。それは1925年、23歳のときだった。翌年には、冬の黒部横断も果たしている。積雪期の黒部横断といえば、現在でもひとにぎりの強力なクライマーにしかなし得ない困難な課題である。若いころの今西の登山家としての力量がうかがえる事実だ。  

そして早くも海外に目を向けて、1934年には朝鮮最高峰・白頭山に冬期初登頂を果たし、1942年には中国北東部の大興安嶺山脈にも足を延ばしている。  

このころの今西の山遍歴の特徴はやはり「未知への志向性」。当時は海外はもちろん、国内の山でさえ情報は少なく、登山は探検行為でもあった時代。先鋭登山には、困難を追求する方向性と未知を追求する方向性があるが、今西は明らかに後者を志向する代表選手だった。

今西は50歳のときにヒマラヤの8,000m峰マナスルの偵察隊を隊長として率い、4年後の日本隊による初登頂の土台を作っている。これなどもまさに登山というより探検そのものという遠征だった。  

今西という人はカリスマ的なリーダシップを持っていたらしく、こうした大きな登山を支える”今西派”といえる弟子たちが多くいた。ただし「弟子」といってもそれぞれが個人としても一流の集団。梅棹忠夫、川喜多二郎、中尾佐助、四手井綱英などの名前を聞いたことはないだろうか。梅棹や川喜多は一般社会では親方の今西よりむしろ名が知れているかもしれない。

今西は支配的なリーダーシップではなく、登山と探検と研究というキーワードで、こういう優秀な人材を引きつける力を持っていたようだ。  

ところで、今西のもっとも有名かもしれない登山の業績(?)として、生涯に1,500山を登ったというものがある。数字だけ聞いてもピンとこないが、1年に50山登ったとしても30年かかる計算だ。年に50山登るだけでも並大抵のことではないのに、それを30年も続けないと1,500には到達しない。

やはりその山にかけた情熱は相当なものだったのだな――と私は思っていたのだが、この文章を書くために『評伝 今西錦司』(本田靖春著)という本を読んで驚愕した。

1,500山は生涯をかけて積み上げてきたのではなく、66歳のときには500山しか登っていなかったというのだ。そして76歳で1,000山を達成。そこからさらにペースが上がって、1,500山を達成したのは83歳のとき――。

この年齢にしてこれは尋常でないペースだ。常軌を逸しているともいえる。仕事の一線を退く時期に来てなにかスイッチが入ってしまったのかもしれない。名を残すような人の集中力というのは、やっぱり凡人離れしていたようだ。

 

今西錦司
Imanishi Kinji
1902~1992年。京都府出身の生態学者・登山家。京都大学理学部で生態学の研究を続けるかたわら、戦前から積極的に海外の山に出かけ、のちの京都大学山岳部や探検部設立の礎を築いた。1952年には、ヒマラヤのマナスル踏査隊長を務め、4年後の初登頂へと導く。京都大学名誉教授。

 

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PROFILE

森山憲一

PEAKS / 山岳ライター

森山憲一

『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com

森山憲一の記事一覧

『山と溪谷』『ROCK & SNOW』『PEAKS』編集部を経て、現在はフリーランスのライター。高尾山からエベレストまで全般に詳しいが、とくに好きなジャンルはクライミングや冒険系。個人ブログ https://www.moriyamakenichi.com

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