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「星空をペガサスと牛が飛んでいく」を観に、八戸市立美術館を訪れて|筆とまなざし#400

教育版画と土地に根ざすアート。

一枚の版画作品を見るために青森県八戸市を訪れた。八戸市立美術館で行なわれている展覧会『「風のなかを飛ぶ種子」青森の教育版画』。そのなかに「星空をペガサスと牛が飛んでいく」(『虹の上をとぶ船総集編Ⅱ』)という、縦1m、横2mに及ぶ大きな版画作品がある。この版画に見覚えのある人も多いのではないだろうか。宮崎駿監督作品『魔女の宅急便』の劇中画のモデルとなったからである。主人公のキキが黒猫のジジにそっくりなぬいぐるみを森のなかに落としてしまう。やっとの思いで探し当てたのは森のなかにひっそりと佇む丸太小屋の窓辺だった。その小屋には絵描きの少女ウルスラがひとりで暮らしていた。その少女が描いているのが「星空をペガサスと牛が飛んでいく」をモデルにした絵である。

戦後、全国的に教育版画運動が巻き起こる。それは生活綴方運動と切っても切れない関係にあり「教育版画は生活綴方の弟である」ともいわれる。あるときは生活綴方文集の挿絵として、またあるときは版画単体で版画集が組まれた。版画制作は生活綴方同様に「自分の身の回りの社会を認識し、自ら考え、生きていく力」を育むために有効だと考えられた。また、文集がガリ版刷りの印刷物という点で版画との親和性があったのだろう。ちなみに、「版画教育」ではなく「教育版画」と呼ばれるのは、版画制作を教えるのではなく教育に版画を用いたためだ。「恵那の教育」でも版画制作は積極的に取り入れられ、恵那の教師も優れた版画作品を遺している。そんな教育版画運動が盛んに行なわれた地域のひとつが八戸だった。教育版画とはどんなものだったのか。八戸でどのような教育版画運動が行なわれていたのか。それが知りたいと、八戸へ向かったのである。

1950年代、青森でも生活綴方が行なわれ、初期の教育版画は「生活版画」とも呼ばれ、生活綴方とともに発展した。モチーフは農業や漁業に従事する人、つまり子どもたちの親の姿だった。子どもたちにとって生活と労働は直結したものだった。やがて社会の変遷のなかで親の仕事場が会社となると、生活の場と仕事の場の乖離が起こる。子どもたちの生活から労働風景が消えていき、版画のモチーフは社会問題やファンタジーの世界へと変化。1976年、八戸の教育版画は八戸市立湊中学校養護学級の生徒たちによって制作された『虹の上をとぶ船』シリーズとして結実する。

『虹の上をとぶ船』シリーズを指導した養護学級担任の坂本小九郎は、1951年に「日本教育版画協会」を設立した大田耕士に大きな影響を受け、親交も深かった。教師であり版画家でもあった大田耕士。じつは彼は宮崎駿監督の義父であり、宮崎自身も教育版画運動に協力することがあったという。大田を通じて「星空をペガサスと牛が飛んでいく」を知り、坂本に許可を得て映画に取り入れることになったらしい。

実際に目にした「星空をペガサスと牛が飛んでいく」は、思っていたよりも大きく、想像力に富み、非常に複雑で繊細な版画作品だった。まるで、澄み切った夜空に瞬く無数の星のようだと思った。シリーズのほかの作品も勝るとも劣らない精緻な作品である。これらの作品を完成させるのに、どれほどの根気と時間と集中力が必要だっただろう。その気の遠くなるような制作過程が、養護学級の生徒たちの個性に合致したのだろうか。だからこそ、これらの作品を生み出し得たのではないか。この連作版画は大きな反響を呼び、それまで遠慮がちにすごしていた養護学級の生徒たちは自信を身につけ、学校でもっとも明るい教室になったという。

さて、青森県の版画といえば棟方志功である。元々版画制作が盛んな土地柄だった青森県。それはなぜか。美術館の学芸員に尋ねると、一瞬間を置いてこう言った。

「私の個人的な感覚なんですが、貧しかったからだと思います。たとえば油絵具を買うにはお金がかかり、そもそも売っているお店も当時は少なかったでしょう。生活のなかにあるもの=木と紙と墨を使って制作できるもの、それが版画だったんじゃないかなと思います」

教育版画のみならず、戦後の生活綴方もまた貧しい農村が出発点だった。それはぼくが暮らす恵那地域も同様である。暗く、貧しく、寂しい農村。けれども、だからこそ、そのなかに灯る灯火は温かい。戦後花開いた教育版画や生活綴方は、そんな灯火のようなものだったのではないだろうか。

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PROFILE

成瀬洋平

PEAKS / ライター・絵描き

成瀬洋平

1982年岐阜県生まれ。山でのできごとを絵や文章で表現することをライフワークとする。自作の小屋で制作に取り組みながら地元の笠置山クライミングエリアでは整備やイベント企画にも携わる

成瀬洋平の記事一覧

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