青森県立美術館で出逢った一枚の写真。八戸の景色から浮かび上がるミレーの風景|筆とまなざし#401
成瀬洋平
- 2024年12月11日
共通して作品のモチーフとなった農村や労働者。八戸の鉛色の風景が小島の写真を想起させ、北緯48.5度のパリの風景を想像する。
八戸を訪れる前に、青森県立美術館を訪ねた。青森の版画といえば棟方志功。以前、棟方志功記念館に行ったことがあったのだが、今年の3月で閉館してしまっていた。しかし県立美術館で作品を見ることができると知ったのだ。
青森駅からバスに揺られて美術館へ。「ジブリパーク展」が行なわれていて、平日だというのに家族連れも含めて多くの人で賑わっていた。入るとすぐに、巨大な布に描かれたシャガールの絵が出迎えてくれる。吹き抜けの空間4面に展示されたその作品は圧巻。棟方志功や青森の版画家の作品を見て、ジブリパーク展を拝見。離れにあるミュージアムショップに向かった。
ショップに入ってすぐに、心を奪われた。たくさん並んでいるポストカードのなかに、農婦のうしろ姿が写された写真を見つけたときだった。コントラストの濃いモノクロ写真はそれだけでドラマチックな印象なのだが、そこに映し出された、背中を丸めた農民の姿が非常に印象的だった。瞬間、パリ郊外、バルビゾン村で農民を描いたミレーの絵が思い浮かんだ。
ポストカードを手に取ると、小島一郎と書かれていた。写真が撮られたのは昭和30年代。小島は1924年(大正13年)に青森市に生まれた。やがて激動の時代を迎え、戦地へ赴く。復員後、焼け野原となった故郷へ戻った。食糧難のなか、歩いて食材を買いに行くときに何気なくカメラを提げた。それが大きな転機となった。もともと父が写真材料を扱う店を営んでおり、写真は身近なものだった。写真店を営みながら、本格的に写真を始めたのは昭和29年ごろ。主に津軽の風景やそこで働く労働者がモチーフとなった。ちなみに写真店では、のちにベトナム戦争を撮影する報道写真家・沢田教一が働いていたという。
小島の写真は東京でも高い評価を受け、報道写真家を目指して上京する。しかし、いままでとは全く環境の違う東京での生活はうまくいかなかった。昭和38年、新しい被写体を求めて冬の北海道へ渡る。過酷な撮影の日々に体調を崩し、翌年帰郷。体の容体は回復することなく、39歳の若さでこの世を去った。
思わず、今夏出版された新しい写真集を衝動買いし、八戸へ向かった。車窓から見える、鉛色の雲が垂れ込めた風景は小島の写真を想起させた。そして、バルビゾンの風景もこんな感じなのかと思った。青森市の緯度は北緯40.5度。パリは北緯48.5度。ぼくが住んでいる岐阜は北緯35度なので、ずっとパリに近い。
八戸で教育版画を見たあと、種差海岸の近くに住む友人の家へ向かった。教育版画や生活綴方が取り上げたのは労働者だったが、ミレーや小島一郎がモチーフとしたのもまた労働者の姿だった。小島のモノクロ写真が、版画作品と妙に重なって見えた。
友人は、15年間パリで暮らして数年前に日本に帰ってきたクライマーである。彼が足繁く通ったのが、パリ郊外の岩場、ボルダリングの聖地ともいわれるフォンテーヌ・ブロー。じつは、ブローはミレーが住んでいたバルビゾン村のすぐ近くで、ミレーの絵を見るとところどころにボルダー(もちろん登っている人はいない)が描かれているのに気づく。
「フランスでは、みんな手作りしたものでていねいに暮らしていて。その影響かな」
野菜を育て、漬物はもちろん、味噌も手作り。コーヒー豆は生豆を買って自分で焙煎する。近くの港で買ってきてくれた新鮮なお刺身。薪ストーブにかけた土鍋で炊いたご飯をいただく。
「松の葉って体にいいんだよ」
そう言って出してくれたのは庭の松の葉とレモンで作ったシロップ。お金に頼らず、手作りのものでていねいに暮らす。生活の豊かさとは効率や量の多さではなく、ひとつのことにどれだけていねいに心と時間を費やすか。友人を見ていて、そう思わずにはいられなかった。
翌日、家の目の前に広がる海岸へ絵を描きに行った。ミレーが描いた風景を見たいと思った。
著者:ライター・絵描き・クライマー/成瀬洋平
1982年岐阜県生まれ、在住。 山やクライミングでのできごとを絵や文章で表現することをライフワークとする。自作したアトリエ小屋で制作に取り組みながら、地元の岩場に通い、各地へクライミングトリップに出かけるのが楽しみ。日本山岳ガイド協会認定フリークライミングインストラクターでもあり、クライミング講習会も行なっている。
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