「これだけ食えたら、大したもんだよ」
初めて褒められた。
「食う力があれば、また歩ける」
多分。そんな気がする。
終電に間に合った。
座席に座り、カバンをヒザに乗せ、息をつく。
いまの上司とチームを組むようになってから、毎日怒られている。今日起きたことを思い出してみると ……まず、夕方、明日のプレゼン資料を確認するように言われた。それでファイルを開くと、データの数字に間違いがあった。それを私が上司に伝えた。
そしたら「もっと早く気づけ」と怒鳴られて、一時間近く説教が続いたのだった。プロ意識が足りない、という言葉を聞きながら、混乱した。あなたが作った資料なんですけど……とは、もちろん言わず、黙って作り直した。
終わって、片付けて、駅まで走って、こうして今日も終電に乗っている。
首を左右に回すと、パキパキと音が鳴った。そういえば、昼から何も食べてない。でも、食べるより、早く帰って寝たい。
カバンからスマホを出して、SNSを立ち上げる。
ゆっくりタイムラインをスクロールする。と、懐かしい顔が画面に表示された。
ステーキを食べながら、こっちを向いて笑っている男性。Tシャツの胸元には、大きく「Matterhorn」と書かれてある。
マッターホルン。
クマさんだ。もう十年以上会っていない。
私に山登りを教えてくれた、山岳ガイドのクマさん。
高校生のころ、私が学校をサボってマックで時間を潰していると、なぜか父にばれて、「サボるくらいなら、山に行け」と、クマさんの登山用品店に連れて行かれた。クマさんはふたつ返事で「指導」を引き受けてくれて、さっそく、登山靴を買った。
「近場から」というので、軽いハイキングかと思いきや、岩登りだという。
目的地は、広沢寺の岩場。新宿から電車で一時間半。
ネットには「 50mの一枚岩」と出ていたけれど、これほど大きいとは思っていなかった。岩のてっぺんが見えない。
クマさんは岩にスッと手を置き、どんどん上へ登っていく。スパイダーマンのように手足が伸びる。ゆっくりでも、焦るのでもなく、一定のリズムで、上へ上へと移動する。私は、ただ下からドキドキしながら見上げていた。
次の週は、クマさんが山岳救助隊の人たちを講習するのを遠くから見学した。救助隊の人たちが「確保をしっかり!」と声を上げる緊張感のなかで、クマさんは、私に教えるときとおなじように、「この岩は、このアプローチで」と静かに伝える。
どんな岩場でも、慌てず、ゆっくりおなじペースで進む。一歩一歩、上へ移動する。そしたら、必ず頂上にたどり着く。
学校でもマックでもつまらなかった日々が、少しずつ変わってきた。隔週の日曜は山行き。それが私の生活の中心になった。
半年後、奥穂高岳に行った。初めての雪山登山だ。 「雪崩の危険があるから、早く下りるぞ」とうしろを歩くクマさんに言われ、私は怖さと疲れで声が出なかった。
900mも雪渓が続く。アイゼンも、べったりついてくる雪も重い。体が全然言うことをきかない。全然ペースアップができない。
なんとか涸沢小屋まで下りたときには、疲れで声も出なくなっていた。
「よし、昼飯だ」とクマさんの声を聞きながら、ヨロヨロとテラスに腰をおろす。
うどんが運ばれてきた。目の前に置かれた器から湯気と香りが立ち上がってくる。
箸を取り、ゆっくり麺をすする。優しい出汁が、胸から肩、体全体にしみわたる。
汁も飲み切って顔をあげると、クマさんがおかしそうに笑う。
「これだけ食えたら、大したもんだよ。」
初めて褒められた。
「食う力があれば、また歩ける」
多分。そんな気がする。
「行けるか?」
「はいっ」
自分でもびっくりするほど、大きな声が出た。
限界だと思っても、意外と超えられる。
食べて、また、一歩一歩。
スマホの画面に映し出されたクマさんの姿を、拡大して覗き込む。日に焼けて、がっしりした肩。優しくてまっすぐな目。笑っている。懐かしい。いま、どこにいるんだろう。あれから十五年くらいだから、もう七十代後半だろうか。
スマホを握り直して、投稿者をチェックする。
昔、クマさんに教わっていた救助隊のひとりらしい。
写真が数枚続いて、その下に文章が出ている。
[名ガイド、通称クマさん。いろんな思い出があります。無口で優しく、ときに厳しく、山との向き合い方を教えてくれました。ご冥福をお祈りします]
亡くなった理由は書いていない。山の事故ではないようだ。
ご冥福を……。
何度も、くり返し文字を追う。
家の近くで、コンビニに立ち寄る。オレンジジュースをひとつ、カゴに入れる。
明日も朝早くから仕事だ。数時間後、私はまた、あの部屋で怒られながら一日をすごすのだろう。でも、それくらいなんだ。食べよう。
棚には、おにぎりが数個しか残っていない。シャケひとつ。おかかひとつ。
少し迷って、「バクダン」と書いてある焼き肉入りのおにぎりをふたつ、コンビニのカゴに追加して、レジに向かった。
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PROFILE
ランドネ 編集部
自然と旅をキーワードに、自分らしいアウトドアの楽しみ方をお届けするメディア。登山やキャンプなど外遊びのノウハウやアイテムを紹介し、それらがもたらす魅力を提案する。
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