勝ちにこだわりペダルを踏み続けた日本のエース 吉岡直哉【La PROTAGONISTA】

昨年、チーム右京で世界を転戦してきた吉岡直哉が
Jプロツアーに戻ってきた。
Jプロツアー開幕戦では好走し、その存在をアピール。
今回、吉岡の競技人生にフォーカスした。

■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1991 年12月23日生まれ 身長・体重/167cm 57kg
趣味/愛犬ローザと戯れる、峠のストラバ記録の更新

TEAM UKYO 吉岡直哉

HISTORY
2008〜2010 私立大谷高等学校自転車競技部
2010〜2013 京都産業大学自転車競技部
2014     チームユーラシア
2015〜2017 那須ブラーゼン
2018〜現在  チーム右京

自転車を始めた原点スタイルの確立

吉岡直哉の存在を知ったのは、2011年5月の門田杯U 23修善寺ロードレース。
レースは終盤、数名に絞られたグループから秀峰亭の厳しい登坂で1人が抜け出して、私は両手をあげてゴールする彼の後ろ姿を見送った。その選手こそ全国区の大会で初優勝を遂げた京都産業大学3年の吉岡だった。「メンタルが弱く、試合運びがうまいわけでもなかった当時の自分。全国区で入賞するラインまで来てなおさら、勝てる選手との違いに悩まされた。自信をつけるためには勝つしかなかった。門田杯の優勝はそんな葛藤から抜け出したレースでした」
大学1年の学生選手権ロードは6位。出遅れた展開からガムシャラに前を追いかけ、20㎞を独走で追いつき入賞した。この走りを自信に、大学2年時のレースは自己満足のアタックを繰り返し、低迷してしまう。そんななか、試合巧者でチームメイトの木村圭佑(現シマノ)がインカレロード準優勝と活躍し、同期との差も感じ始めていた。「自己流で始めた自転車競技、本格的な大学競技部の活動に憧れていたことで、逆に自分で考えて練習を組み立てることを忘れていました。その反省からすべてを見直してトレーニングに打ち込みました。パワーメーターを導入し、目標と成果をデータとして可視化し、現在のスタイルを確立しました。その成果が門田杯の優勝であり、その先の宇都宮ロードの優勝につながりました」
インタビューを続けていくうちに、彼が少年時代から、「シーズン初めからトップレベルで戦える」コンディションを作る才能の持ち主であることを知った。

トレーニングの原点は自分で組み立てること

丹波高地の麓、嵐山に生まれ育った。クルマやオートバイ好きの父の影響を受け、中学時代にMTBを借りて野山を駆け回った。「これならもっと速く走れるよ……」と、彼は親戚から一台のロードレーサーを譲り受けた。その軽快なスピードに圧倒された。
高校1年のある日、鈴鹿サーキットを走るレースがあることを偶然知った。「憧れの鈴鹿サーキット。まったくレースを知らないまま8月のシマノ鈴鹿ロードにエントリーしていました」
レース当日、優勝できるイメージを持ち、スタートからアタックを決めて1㎞も走らぬうちに身体はヘロヘロに。集団に飲まれ、前輪をハスって落車。前歯を折り、全身擦過傷で自宅に戻ると母親に泣かれた。「こんなボロボロになって負けるなんて考えもしていなかった。悔しい……。もう一度レースに出場する」
10月に四日市で行われる全国ジュニア自転車競技大会未登録の部にエントリーした。本で勉強してトレーニングし、地元で地図を元に作った1周6㎞のコースを毎朝5時から1時間、サイコンもないバイクでタイムを縮めることを目標に走り続けた。
迎えたレースは中盤にはバラけた展開のなか、ラスト数㎞で2人を抜いて3位。たった一人で始めた自転車で表彰台に上った。
吉岡はレースを始めた少年時代から、日々のトレーニングに対して数値化された成果を自己分析し、厳しい練習を遂行していける忍耐力と根気強さを持っていた。

今季Jプロツアーに戻ってきたチーム右京。そのなかでも最終局面に爆発する彼のスピードに期待

出遅れたと感じたヨーロッパ遠征

20歳で国内U23のトップレベルに到達した肉体は、高いコンディショニングを必要とした。「勝つ自信を持てた。ゆえに積極的に休みも入れて調子の波を管理することが必要でした。大学4年時は学生選手権、インカレと最終局面での落車で勝てませんでしたが、レースに合わせてピーキングできたことはひとつの成果でした」
8月にナショナルチームに選出され、欧州遠征の機会に恵まれた。「これからプロになるメンバーに囲まれた遠征は貴重な体験でした。そして初めての本場ヨーロッパのレース。まだこんなに高いハードルがあるんだと」
ツール・ド・フランスも知らずにガムシャラに自転車を始めた少年は、いつしかプロロードレーサーを目指すようになっていた。「大学卒業と同時にチームユーラシアと契約し、ベルギーで活動しながらプロ契約を目指しました。ところがベルギーは実力と年齢に非常にシビアな世界でした」
そして一時帰国して参戦したツール・ド・熊野で落車し、鎖骨と肩甲骨を骨折した。学生時代とは違う競技環境に焦り、動かない身体に葛藤し続けた。「競技人生を立て直そう」と決意し、大学OBであり那須ブラーゼンの監督であった清水良行氏に相談しプロ契約を締結した。「清水さんも大学卒業後にヨーロッパを転戦した選手。日本のレースでも勝って行けばプロ選手としてヨーロッパに戻れると……。Jプロツアーでのステップアップを目標にしました」

劇的優勝を遂げた宇都宮ロード

2017年Jプロツアー開幕戦の宇都宮ロードに、記憶に残る勝利があった。
佐野淳哉、鈴木龍、雨澤毅明らエース級の選手が2015年度末に退団発表。2016年のチームは活動は窮地に立たされていた。「那須ブラーゼンは戦力ダウン。今季もチームの活躍は望めないのでは?」
ほとんどのファンがその可能性をあきらめた中で、吉岡直哉だけは違っていた。「勝てるかも、では勝つことはできない。あの日僕は勝つという気持ちしかありませんでした」
25歳、プロ生活3年めを迎えたシーズンイン。宇都宮ロードの周回コースでの力の分布データを分析し、トレーニングを組み立て照準を合わせてきた。「僕は出場するメンバーの誰よりも40秒の全力走は優れていました。この力を発揮できるポジションまでキープする体力が必要でした。これまで300Wで20分踏めていた力を40分に伸ばす、得意な1分以内の登坂のパワーを上げるトレーニングを冬から続けました」
レースの流れを読む力はすでに備わっていた。ゴールの鶴カントリーの上りは一部15%の急坂区間を含むラスト400m。生き残った30名弱の集団は最後の左カーブを迎え、レースは最終局面を迎えていた。スプリンター吉田隼人(現NIPPO)を勝たせたいマトリックス、増田成幸と岡篤志のダブルエースを押し上げたい宇都宮ブリッツェンが牽制し合い、横に広がった。その瞬間、吉岡直哉は全身全霊の力でアタックを決め、ゴールラインへと駆け上がった。「僕は那須ブラーゼンのエースにならなければならなかった。チームが危機的だったからこそ、チームメイト、支えてくれる人々のありがたみを感じました」
近年まれにみるドラマティックな勝利から2年がたち、吉岡は今年、チーム右京のジャージを着てJプロツアー開幕戦に戻って来た。そこでかつてツールで活躍したフランシスコ・マンセボと果敢に戦い、完走6名中4位でゴールした。『伏兵ではない』この日は誰もが日本のエースとして期待を寄せた。続くツール・ド・タイでも好走を見せた吉岡、再び世界を目指す彼に今後も注目したい。

REPORTER
管洋介

アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める

AVENTURA Cycling

(出典:『BiCYCLE CLUB 2019年6月号』)
「ラ・プロタゴニスタ」の記事はコチラから。

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