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ペダルに人生を賭けてきた若き獅子 小野康太郎【La PROTAGONISTA】

2020年Jプロツアーに参入する新生チーム「さいたまディレーブ」。
そのエース格の選手として注目されている小野康太郎選手。
かつて高1で驚異のJプロデビュー、ジュニア、U23時代を
単身イタリアで活動を続けてきた彼をプロタゴニスタはフォーカスした。

■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1997年5月16日 身長・体重/170cm・59kg
趣味/カフェ巡り

さいたまディレーブ 小野康太郎

【HISTORY】
2010-2015 スミタ エイダイパールイズミラバネロ
2016 チームスピーダー
2017 ヴェロ クラブ メンドリッシオ
2018 チーム ザッピ
2019 ヴェロ クラブ メンドリッシオ
2020 さいたまディレーブ

高校時代にJプロツアーデビュー

東京都練馬区、住宅街の一角で自転車店を経営する家庭で育った。「同業のつながりもあり小学5年の時に近隣のロードバイク専門店、高村製作所を訪ねました」。

数多くのプロ選手を育てた名門クラブ、ラバネロが選手を目指す大きなきっかけとなった。「偶然お店に通いだしたころに平塚吉光さん(元ブリヂストンサイクリング)や栂尾大知さん(現コラッジョ代表)が所属していました。Jプロツアーで活躍する選手を間近にして、プロを目指したいと思いはじめました」

放課後はお店の庭で3本ローラー、週末は長距離のトレーニング。これまで想像もしなかった生活をあたりまえに送りはじめた。実業団レースには中学2年で初参戦。9月の美浜クリテリウムE3で4位、ツール・ド・おきなわ中学生の部で準優勝、実業団下総大会E2を3位、チャレンジロード優勝と頭角を現し、異例の高校1年でのJプロツアーデビューを果たす。

4月の白浜クリテリウムは予選で4位、決勝も完走。「U 17のギヤ比でも走れるという自信をつけました」。この活躍に目を留めた高村精一監督と元クラブ員でイタリア在住の堀ひろのの協力を得て、高1の夏休みを利用したイタリア遠征を実現した。「すべてが衝撃的でした。同世代の選手たちがひしめき合う密集度の高さと殺気立った空気に、夢中でペダルを踏みました」

高校2年になるとラバネロがJプロツアーから撤退しE1での出走となったが、5トラックとロード2種目で日本代表選手となり、リッチモンドの世界選手権ロードに選出された。「初めての世界選手権はスタート300mで雨の路面に前輪を滑らせ落車。大混乱の中、舞い上がっている自分に気づくも遅く、テクニカルなコースをぬって集団に追いついた時には石畳がはじまり脱落。苦しくて最後尾を泣きながら走りました」

失意の帰国と同時に人生の転機が訪れた。大会期間中に内進試験を受けなかったことで、大学へ進学の機会を失った。「あの熱いイタリアを再び走りたい」チームニッポ大門宏監督に相談を持ち掛けるも「このタイミングでは難しい……」と、はやる気持ちと裏腹に何も決まらないままU 23での1年めを迎えた。

切れ味の鋭い加速がいよいよJプロツアーでも爆発する!

突然やって来た一通のメール

2016年3月17日に届いた1通のイタリア語のメール。「スイスのチームであるスピーダーのGMから『うちで走らないか?』という契約の話でした。半ば目標を失いかけている陰で大門さんが動いてくれていました」

急ピッチで準備を整え、5月にロカルノに降り立った。シーズン真っただ中のチームとの合流。慣れる暇もなく試合が始まった。イタリアでの2戦め、5月15日は運命の日となった。混戦を抜ける好走の末、レースはスプリントを目前に動いていた。「トップ10も狙える位置で始まったスプリントで、目前で落車したイメリオチーマ(現ガスプロム)に乗り上げて鎖骨を骨折。この日を境にスプリントに割り込むのに恐怖を感じるようになったほどの衝撃でした」

イタリアで手術を終え、日本に帰国するもロードバイクにまたがれたのは全日本の1週間前。それでも潜在能力の高さを発揮し全日本ではメイン集団で完走を遂げる。7月に再びイタリアのチームに合流。U 23の精鋭がひしめくプロトンに戻って来た。しかし、すでに何十レースを走ってきている彼らと太刀打ちできるコンディションはなく苦汁をなめた。9月中旬、フランスのツール・ド・モゼールでは最終ステージをトップグループでゴールするもイタリアに戻れば厳しいレースに空を仰いだ。「イタリアのレースの速さは異次元。チームでポジション争いをまとめていく展開が特徴で、自分のチームがそこまで強くなかったこともあり勝負も見えなかった」

心機一転、移籍交渉を重ねて翌年はスイスのメンドリッシオと契約。これでほんとうの意味で過酷な世界を知ることとなる……。「有望な選手がそろい、出場するレースがハイクラスのみという環境。中期プロ契約を獲得しようと展開する、とてつもないスピードに成す術もなく苦しみました」

そんななかにも輝く日はあった。

6月のミラノートルトナではチームメイトのティエル・シリルが優勝。20人ぐらいに絞られた集団の中で13位でゴールした。しかし、しだいに生活の見えないダメージが重なり、莫大なストレスを抱え、全日本選手権を迎えるも力をペダルに込められずリタイア。復活を賭けて生活環境を見直し、10月頭のジロ・デ・ロンバルディアU 23を走り切った。

苦労を間近に見ていたスタッフの薦めで、イタリアで寮生活を送るチームザッピと契約を締結。3度めの移籍を果たす。「ところが、チームはイタリアのスーパーストイックスタイルを方針とし、つねにダイエット、生活の監視……。空腹と戦いながらのレースへの参戦は無謀でした」

シーズン当初は走れたが、次第に走れなくなっていく。われに返ったのは日本代表の招集で参戦したチェコのネーションズカップ。

イタリア国外の試合でも力を出せない自分を客観的に捉えた。さらに全日本選手権を走るも落車に巻き込まれ車輪を破損しリタイア。気を晴らす余裕もなくなっていた。「日本で競技を続けていたらどれだけ楽に力が出せたか……。でもこれは僕が決めた道。『U 23はイタリアでやり切る』。翌年はメンドリッシオに戻りました」

U23最後の年、全力で準備し2月のトスカーナ合宿では誰よりも一番いい数値を出すも、レースにはつながらず……。全日本出場も諦めた。

迷う自分を振り返りながらも、最期までやり切ろうと高地リヴィーニョでのチーム合宿に向った。もう失うものもない、最後までやり切ろうという気持ちでイタリアのシーズンを走り切った。「『もうやめても悔いはないだろう』イタリアの帰路で思っていた。まだ僕には自転車を続ける価値があるとも……。U 23という期限に人生を賭けてきたからこそ見出せる人生もあると……」

誰よりも己を信じて踏んできたペダルに再び力が宿った!

今シーズンはさいたまディレーブに移籍、再びJプロツアーでの走りに期待したい。

 

REPORTER

管洋介

アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める
AVENTURA Cycling

 

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Bicycle Club / 輪界屈指のナイスガイ

管洋介

アジア、アフリカ、スペインなど多くのレースを走ってきたベテランレーサー。アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める傍ら、インプレやカメラマン、スクールコーチなどもこなす。

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