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着火寸前!日本屈指のスプリンター 吉田隼人【La PROTAGONISTA】

高校ではインターハイ、国体優勝。大学ではUCI2-2カテゴリーでステージ優勝。
プロデビュー後はJプロツアーで4勝をあげた逸材が、2年ぶりに帰ってきた。

■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1989年5月19日 身長・体重/173cm・63kg
血液型/A型

マトリックスパワータグ 吉田隼人

【HISTORY】
2005〜2008 奈良県立榛生昇陽高校自転車競技部
2008〜2011 鹿屋体育大学自転車競技部
2012     チームブリヂストン
2013〜2014  シマノレーシング
2015〜2017  マトリックスパワータグ
2018〜2019  ニッポ・ヴィーニファンティーニ
2020〜    マトリックスパワータグ

安原監督が「勝つ」と決めた日

2015年は吉田隼人が国内トップスプリンターとして知れ渡った年となった。

この年、吉田が所属したマトリックスパワータグは開幕当初から複雑な状況を抱えていた。シーズン前の3月8日、屈強な精神力とスピードを武器にしていた和田力(当時22歳)が事故により他界。1週間後のJプロツアー開幕戦、宇都宮クリテリウムでは選手全員が喪に服しスタートを切った。レースは大学時代の和田の先輩にあたる窪木一成が後輩への思いを胸に力でねじ伏せ勝利した。「気持ちの整理もつかず感情が錯綜するチーム、僕らに何ができるのか……。答えは勝つしかない」

Jプロツアー第6戦、群馬CSCロードレースはテクニカルなスピードコースに展開が激しく、脚を削られた選手たちのスプリントで決着する。

オスカル・プジョル、土井雪広ら強力な布陣でリーダーのパブロ・ウルタスンを守るチーム右京を筆頭に、役者がそろった。『隼人、おまえが勝て!』安原監督の決意は固かった。

前半は各チームが攻撃を仕掛け合うなか、マトリックスはベンジャミン、アイランで有力選手が含まれるアタックをチェック、そしてホセ ビセンテを19人のエスケープグループに合流させることに成功した。最大で1分30秒のリードを奪うも思惑が交錯し、人数を絞り込む展開が始まると同時に先頭を走っていた司令塔の土井雪広がプロトンに戻り、後続のチーム右京を引き連れて猛烈な追撃を開始した。1列棒状に伸びたプロトンの勢いは留まることを知らずラスト3周でエスケープグループを吸収、チーム右京が交互にアタックを始めた。

ゴールまであと数km、プジョルが逃げ切りを図り、プロトンのボルテージは心臓破りの坂を手前に最高潮に到達しようとしていた。猛烈な加速で駆け上がる登坂にとっさの判断でベストなギヤを掛けたそのとき、吉田隼人のマシンに致命的なトラブルが発生!「勝負所でのチェーン落ち……すべてを失ったと思いました」

ひとり時が止まったその瞬間、シートポストをガッチリ掴み、渾身の力で引き上げるホセ・ビセンテの姿があった。

さらにチェーンを復帰させたその先には、アイランが集団を引き裂きラインを導き猛進していく。

ゴール200mを目前に解き放たれた吉田隼人、全身全霊のスプリントは後続を引き離しゴールを突き抜けた。劇的なドラマ。たった2分のできごとが現在まで快進撃を続けるマトリックスの原動力となった。「それまでスペイン人と日本人で脚の読み合いだったメンバーが和田への感情でひとつになりました。勝ちにこだわりレースを一丸となり作り上げる。僕はプロのスプリンターとして目覚めました」

この日を機に2016年、2017年はホセが年間総合優勝、吉田隼人はスプリントで3勝をあげる大活躍を遂げた。

デザインを刷新したマトリックスジャージを身にまといレースを牽引する吉田隼人

スプリンターの家系に生まれたサラブレッド

「頑張ってもいつも4位……『表彰台に乗れないやつ』ともいわれた自分……。初めてスプリントで噛み合った『けいはんなサイクルレース』での初勝利はいまだに鮮明に覚えています」

今年30歳にして23年のキャリア。小学1年生で鈴鹿ロードレースでデビュー、初勝利までの4年の歳月はその後の彼の活躍からすればかかった時間は遠く長かった。

2代続く競輪選手の家に育ち、自転車に向き合う姿勢はとくに厳しく育てられた。

世は空前のサッカーブーム、彼も自転車の傍らボールを追いかけ、小学6年で関西代表にまで選出されるほどの実力をつけていた。「すでにまわりはプロサッカー選手を真剣に目指すメンバー、振り向けば自分のサッカーは遊びの範疇で『僕が目指すならプロロードレーサーだな』と思う様になっていました」

中学生となり「夢が競輪でないなら……」と父親が頭を下げたのが徳地末広先生が指導する強豪榛生昇陽高校自転車競技部だった。「徳地先生には自分を高校生に混ぜて指導していただきました。高校の部活に触れ合うことでインターハイを目指す選手たちの練習姿勢、礼儀、卒業後の人生まで学んだことは大きな糧になりました」

本格的にバンクでスピード練習を積み重ねスプリンターとしての能力が開花した。そして、彼が高校入学した2005年は別府史之のディスカバリーチャンネル契約に湧いていた。「夢はヨーロッパ、別府史之さんの競技の軌跡を越えていくことで夢の可能性を描きました」

高校の主要タイトルを総なめした活躍の先には、別府の姿が重なっていた。しかし、高校卒業とともに選んだ道は鹿屋体育大学。「競輪選手でありながら整体師を副業にする父の背中も見てきました。競技を続けていくにもセカンドライフの準備は重要でした」

とはいえ当時、大卒からのヨーロッパプロへの道は前例がなく、どこか人生に怖れを抱きながら学生カテゴリーで全国制覇を目指すことに集中した。「在学中にニッポの大門宏監督から『ウチにこい』と声をかけていただいていましたが……少し気後れしていた自分もいました」

大学卒業後はチームブリヂストンと契約。プロロードレーサーとしてひとつの夢はかなえた。しかし、フランスでプロレースを走るも翌年はシマノレーシングに移籍、アジアを主戦場に戻した。「夢が揺らいでいた自分を再びヨーロッパへ推してくれたのが2015年から所属したマトリックスの安原監督でした」

Jプロツアー4勝の活躍から、安原監督は彼を再びヨーロッパを主戦場にするニッポに向かわせた。「年齢も27歳、ラストチャンスと知ってか大門監督と水面下で交渉してくださっていました。そして次はないと考えてヨーロッパへ向かった自分に大門監督から『お前みたいに人生の3分の2を自転車で生きているヤツは、それでやって行くのがいいだろう』という言葉をいただき僕の人生観は変わりました。『一生自転車で生きていく!』と」

ニッポの解散を期にマトリックスに戻ることを選んだ吉田隼人。

スペイン人も日本人も表裏なく一体にレースを戦うチームで、自転車で生活をプロデュースしながらJプロツアーで戦う。
 

REPORTER

管洋介

アジア、アフリカ、スペインと多くのレースを渡り歩き、近年ではアクアタマ、群馬グリフィンなどのチーム結成にも参画、現在アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める
AVENTURA Cycling

 

La PROTAGONISTAの記事はコチラから。

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PROFILE

管洋介

BiCYCLE CLUB / 輪界屈指のナイスガイ

管洋介

アジア、アフリカ、スペインなど多くのレースを走ってきたベテランレーサー。アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める傍ら、インプレやカメラマン、スクールコーチなどもこなす。

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