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再びペダルを踏み始めた鋼の身体 西谷雅史【La PROTAGONISTA】

実業団小川村大会の劇的優勝から12年、西谷雅史が5年ぶりに
『弱虫ペダルサイクリングチーム』でJプロレース界へのカムバックを宣言した。
心機一転、山梨に移り住みトレーニングを重ねる彼にプロタゴニスタはフォーカスした。

■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1967年3月24日 身長・体重/172cm・64kg
血液型/O型

弱虫ペダルサイクリングチーム 西谷雅史

【HISTORY】
1991〜2001  CWS
2002     チーム GATTA
2003     チーム オルベア・エチェオンド
2004〜2011  チーム オーベスト
2015     チャンピオンシステム
2020     弱虫ペダルサイクリングチーム

日本のレース界に名を残した伝説の男

2007年、この舞台で戦う一人の市民レーサーがプロを完全に抑え込み、その名を知らしめた。「サイクルポイント オーベスト」の店長 西谷雅史(当時40歳)、今回のプロタゴニスタだ。

標高差500mのアップダウンを5度繰り返す山岳コースとして知られる、小川村大会でのその歴史的勝利は今でも語り継がれる。

「あの日は驚くほど走れていました。シマノ2人(野寺秀徳、狩野智也)と僕の3人で終盤に流れ込んだものの、登坂での心拍数は常にレッドゾーン。じつはラスト1周を前に一度はちぎれてしまった。下りでなんとか追いつくと、交互に繰り返される波状攻撃。2人の攻撃に耐えて先頭に出ると『野寺がちぎれた!もう一人もちぎれそうだ!』と観客や立哨審判の方までも夢中になって自分を応援してくれて……。彼らが少し遠くなった気配だけを感じながら必死にペダルを踏みつけました」

この快挙はファンや市民レーサーはもとよりプロを目指す若手選手にも大きな勇気と影響を与えた。

両親がともに体育教師という家庭に育ち、学生時代は野球やラグビーに打ち込んだ。20代は個人競技に挑戦したいと、1991年にトライアスロンに転向したがうまく泳げなかった。しかし自転車は練習を重ねれば目に見えて力が付くことを実感できた。

練習環境を求め東京に移住、バイクショップCWSで働きながら24歳で本格的にレース活動を開始した。心拍計すら一般的でなかった時代。乗り込むことで身体を仕上げるのが選手の常識だった。

自転車で山を上った回数だけ強くなれる。そんな強い信念で一人練習を重ね、31歳で初出場したツール・ド・おきなわ市民200kmで優勝し、剛脚で知られる存在となった。しかし市民レースでは強くて積極的な走りをするのは数人、ほとんどが脚をためている選手ばかり……。自分へのマークを払いのけて勝つのが目標ではないと葛藤し、自身が挑戦者になれる実業団レースに舞台を見出した。

思いっきり人生賭けてみろよ!

実業団登録して2年めの東日本実業団群馬大会では、プロ選手たちとともにエスケープに乗る活躍。そして同年の全日本選手権。

「レースは最終周、優勝を決めた阿部良之さんのアタックを見送るまでトップグループに残ることができた。それが転機となった。自信をつけられたんです。でもそのころCWSの店長として仕事の責任も重くなってきていて……」

そんな彼を叱咤したのがレースディレクターとして知られた八代正さんだった。「躊躇?そんなんだからダメなんだ!思いっきり人生賭けてみろよ!」

この言葉をきっかけに半年間仕事をやめてレースに専念しようと決意した。すると事態は急展回、2002年実業団レースで入賞。するとワークスチームのオルベア・エチェオンドからジャパンカッププロロードにレンタル選手として参戦する話が舞い込んだ。

突然のオファー、それも大会1週間前。「ヨーロッパプロと走れる!こんな機会はない」と1周めからアタックをかけ完走した。

「その脚で沖縄に行こう」と参戦したツール・ド・おきなわ国際レースでも逃げて山岳賞を獲得。「最後のアタック合戦にあと3回乗れたら先頭でゴールできてたよ」とミヤタの選手だった真鍋和幸に力を認められ、もう1年走りたいと思った。翌年、正式にオルベアに入団し、TT3(現UCIコンチネンタル)のプロレーサーとなった。そして向かったレースはツール・ド・韓国、ツール・ド・チンハイレイクという大舞台。

「ダミアーノ・クネゴらと同じレース、そこでヨーロッパプロたちの走りに驚愕した。上りに入ったとたんに置いていかれる。苦しみあえいで、ふと見上げればはるか先を走るトップグループ。『ああ、世界のトップはあそこにいるんだ……』とすがすがしい気持ちでプロをやめる決意をしました」

ふり絞るように高トルクで踏み抜く力強いフォームは健在。J プロツアーの開幕が待ち遠しい!

佐藤GMからの一本の電話

レースを戦ってきた経験を生かし、2004年にサイクルポイント オーベストを開店。日本最速店長がいる店として知れ渡り、運営したクラブチームは選手たちの登竜門となっていった。

「プロをやめて店を持ちながらレースを楽しんでいるうちに、若いコが集まりチームも士気が高まった。40歳で小川村大会を勝つこともできた。でも、その数年後から不整脈が発症したり、まったく踏めなくなって練習でも待ってもらう経験をした。こんな自分は見たことがなかった。力のままに踏んできた自分とのギャップに、レース活動もやめてしまいました」

50歳を迎え、苦しんだ体調の変化が落ち着き、またひとつ転機が訪れた。いつかは田舎で静かに暮らしたいと思っていた矢先、訪れた山梨で「もう身体が動かなくなっていく年齢も近い、こんな山に囲まれた場所でまた思いっきりペダルを踏んでみたい」と東京の店を閉めての移住を決意したのだ。

不調を乗り越え、再びレースでも入賞を重ねるほど力が戻ってきていた昨年の暮れ、一本の電話が鳴った。弱虫ペダルサイクリングチームの佐藤成彦GMだった。「またJプロツアー、ウチで走らないか?」。山梨に引っ越すタイミングでのオファーに驚いた。しかしどこか心の隅に仕舞い込んでいたレーサー魂に火が灯った。

「再び挑戦するJプロツアー。完走ギリギリで満足するくらいなら、走る意味などない」

袖を通した“弱虫ペダル”のジャージ。そのファスナーを上げ覚悟を決めた。

春の陽気が訪れた取材当日、真っ黒に日焼けした顔で現れた西谷。走り込んだ前腿は大きく盛り上がり、齢53歳にして現役の身体に仕上がっていた。

「この10年いろいろな身体の変化があり、今こうして選手に戻れたのは僕なりに意味がある。自転車に出合い30年、3日続けて乗らなかった日はなかったんだから」

物静かに語る口調に、長い年月をペダルの上で過ごして来た男の信念を感じた。

REPORTER

管洋介

海外レースで戦績を積み、現在はJエリートツアーチーム、アヴェントゥーラサイクリングを主宰する、プロライダー&フォトグラファー。本誌インプレライダーとしても活躍
AVENTURA Cycling

 

La PROTAGONISTAの記事はコチラから。

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PROFILE

管洋介

Bicycle Club / 輪界屈指のナイスガイ

管洋介

アジア、アフリカ、スペインなど多くのレースを走ってきたベテランレーサー。アヴェントゥーラサイクリングの選手兼監督を務める傍ら、インプレやカメラマン、スクールコーチなどもこなす。

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