二兎を追うことで見出した競技人生 橋本英也【La PROTAGONISTA】
管洋介
- 2021年01月23日
競輪選手とロードプロを両立しながら東京五輪を目指す橋本英也。
若くして歩んだエリート街道。
リオ五輪落選後、人生の師との出会いが運命を変えていく。
Jプロツアーきってのスピードマンの彼に
プロタゴニスタはフォーカスした。
■■■ PERSONAL DATA ■■■
生年月日/1993年12月15日 身長・体重/180cm・77kg
血液型/A型
チームブリヂストンサイクリング 橋本英也
【HISTORY】
2009-2012 岐南工業高校
2012-2016 鹿屋体育大学自転車競技部
2016 NIPPOゴキソ
2017 日本競輪学校
2018-現在 チーム ブリヂストンサイクリング
2019年9月28日、Jプロツアー第19戦まえばしクリテリウム。レースはルビーレッドジャージのオールイス・アウラールを守るマトリックス勢が佐野淳哉を筆頭に前方に展開、ライバルをねじ伏せる形でハイスピード進行していく。
ここに割って入っていくのはブリヂストンの鉄壁のトレイン。総合2位の窪木一茂をエースにリードを奪う。
強烈なスピードでそのブリヂストンの進撃の先頭に立つのは橋本英也。脇を締めてハンドルの内側に身体を構えたフォームは時速50kmを優に超え、たまらずプロトンは縦に伸びる。このスピードにくらいつき橋本と肩を並べてくるのはフランシスコ・マンセボが引くマトリックス。この両チームの主導権争いは他を圧倒、トップチームのタイマン勝負にファンは息を飲んだ。
残り1周の鐘が鳴り、岡篤志を勝たせたい宇都宮ブリッツェンが最後の賭けで先頭に躍り出るが、ブリヂストンがゴール直前でリードをすかさず奪い返した。強力な戦士たちに守られた窪木一茂が満を持してスパート、電光石火のスプリントはゴールをとったかに見えたが、アウラールが車輪を差し込み先着。続いてアシストたちがゴールになだれ込むと、息を吹き返すように会場はざわつきを取り戻した。
エースの一瞬の輝きのために死力をつくしたアシストたちにも喝采が巻き起こる。現役競輪選手としても注目を浴びる橋本の走りは見る者に感動を与えた。
リオ五輪に落ちたあの日すべてをあきらめようとした
2016年4月4日、日本自転車競技連盟から届いた、リオ五輪代表落選の通知。この日を境に橋本の人生は変わった。
彼がリオを目指した軌跡をたどれば、それまでの華々しい活躍は枚挙にいとまがない。学生時代から日本代表として中距離トラック種目の全日本タイトルを総なめにし、鹿屋体育大学ではロードとトラック両種目を両立。石橋学、山本元喜、黒枝士揮、徳田優・鍛造という現在のロードレース界を牽引する強豪メンバーの一員としてロードレースでも活躍。
2013年のインカレでは団体追い抜き、個人追い抜き、ポイントレースの3冠を制し、日本大学の31連覇を阻止した鹿屋体育大学インカレ初制覇の立役者に。
2016年春の大学卒業を目前にターゲットをリオ五輪一本に絞った。1月30日アジア選手権オムニアム優勝、3月5日世界選手権ポイントレースでは日本人歴代最高位の5位を記録しリオ五輪トラック・オムニアム競技の最有力候補として名乗りを上げていた。しかし……。
「それはまぎれもなく決断の日でした。自分にとって五輪出場はヨーロッパのロードプロを目指すキャリアの必須条件だったんです。それがかなわないことを知ったとき、すべてをリオに賭けていた僕の行く道は……」
母親ゆずりの前向きな性格の橋本も、この日は動揺と落胆を隠せなかった。しかしよき理解者にも恵まれた。その後の師匠となる児玉利文は学生時代から通っていた地元岐阜のショップ店主であり、同じく中距離を得意としていた岐南工業高校出身の現役競輪選手だった。
「競輪選手でありながら、クリテリウムやフィクスドギヤレースも主催する多才な方でした。競輪を職業にしながら自転車を楽しむ幅を広げる児玉さんが身近にいたことが、競輪に取り組む自分の考え方に大きく影響しました」
橋本は児玉に弟子入りを志願し、2016年10月の日本競輪学校の入学試験に合格、競輪の道を歩む人生を選んだ。
橋本の人生を変えた運命の一言
競輪学校へ入学後は、国家資格である競輪選手資格検定の合格を目指し、勉強と訓練の日々が始まった。起床から就寝まで時間やルールを同期とともに遵守する生活は、新鮮で刺激的だった。
リオを目指した熱い日々、落選に望みを絶たれた日の思いもしだいに薄れていき、競輪という自分の歩む新たな人生に向き合う気持ちが芽生えていた。
しかし、ほどなくして橋本の人生を変える運命の人物が現れる。中距離種目を得意としながらも競輪転向の覚悟を決めていた橋本。しかし「二兎追うものだけが二兎を得る」と、競輪学校の滝澤正光校長が橋本の肩を叩いた。
「かつて競輪S級で一時代を築いた滝澤先生のこの言葉に、すべてがひっくり返りました」
学生時代から目標を一つに絞っていくことが近道だと自負してきた橋本の考えが変わった。
2017年9月12日、校内で実施された3000mタイムトライアルにおいて、1987年に神山雄一郎(61期)が樹立した記録を2秒塗り替える3分33秒32という偉業を達成、中距離の才能を見せつけた。そして、祝福に現れた滝澤から「これが東京オリンピックのスタートだ」という運命の言葉を受け取ると、思わず橋本は滝澤の顔を見上げた。ここに競技人生の第二章が始まると……。
突然やって来たロードプロとしての道
3000mの記録を塗り替えてから数週間後、橋本のもとに一本の電話がかかってきた。「新生ブリヂストンのメンバーになってくれないか……」飯島誠ブリヂストン監督(当時)からの直々のオファーだった。
「ヨーロッパ路線から方向転換した新体制は、東京五輪を目指すトラックとロードを両立したプロチームでした。誰も成しとげたことがないことへの挑戦。ワクワクせずにはいられませんでした」
競輪選手とロードプロを両立させながら再び東京五輪を目指す。学生時代の『自転車を続けながら食べていくにはどうしたらいいか』という悩みは、すべて自転車が解決してくれた。
2018年7月11日、四日市競輪場において橋本英也は113期として競輪プロデビュー。予選から決勝まで3連勝で完全優勝を果たし、鮮烈な印象を残した。この約1カ月前のJプロツアー第10戦那須ロードレースでは準優勝、彼はマルチプレーヤーとしての非凡な才能も証明した。
そして、東京五輪オムニアム種目の代表争いは同じブリヂストンの窪木一茂、今村駿介、橋本によって争われることとなった。ナショナルチームの方針は三者をワールドカップに一戦ずつ出場させて、いい成績を残した者を次のワールドカップに派遣するというもの。
橋本はオムニアム競技のW杯第3戦で4位、第4戦で銅メダルに輝き、2020年6月4日、正式に東京五輪男子オムニアムの日本代表内定選手として選出された。「すべてはリオ五輪に落ちたからこそ成し得たものでした」
ニ兎を追うことで開花した人生、新しいプロの生き方をも示していく橋本英也に注目したい。
REPORTER
管洋介
海外レースで戦績を積み、現在はJエリートツアーチーム、アヴェントゥーラサイクリングを主宰する、プロライダー&フォトグラファー。本誌インプレライダーとしても活躍
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