五輪に行けなくても追える夢がある、4㎞個人パシュートで世界記録更新!時速60㎞超
中田尚志
- 2021年08月20日
8月18日、アシュトン・ランビー(アメリカ・30歳)がメキシコ・アグアカリエンテのベロドロームで4kmインディビデュアル(個人)パーシュートの世界記録を更新した。
記録は人類初となる3分59秒903(平均時速60.18km!)。従来の自転車選手とは全く異なる彼のライフ・スタイルをピークス・コーチング・グループの中田尚志さんが紹介する。
突如現れた天才アシュトン・ランビー
世界的な自転車選手の多くはジュニア時代から本格的に競技に取り組み始める。特にトラックは特異性からその傾向が強い。しかし、アシュトン・ランビーの場合はまったく違ったプロセスで世界のトップに躍り出た。
彼の父親によるとジュニア時代のランビーはバンド活動にいそしむ普通の高校生だったという。レース活動は行ってはいたものの、地元にトラックはなかったし、ロードレースでもこれといった成績を収めることはなかった。彼にとって自転車はロングライドという名の冒険を楽しむツールでしかなかった。
ランドヌールやグラベルライドを楽しんでいた2016年、ひょんなキッカケで地元にある芝生を刈って作ったトラックを走ってみたところ、その魅力に取り憑かれた。本格的なヴェロドロームを経験するためにフロリダ州選手権に出場。会場に来ていたコーチ、カール・サンドクイストの目に留まり本格的に取り組むことを勧められる。そこからランビーの快進撃が始まった。
ランビーがトラック競技を始めたベロドローム
才能開花と挫折
ランビーはすぐに頭角を表し2017年の米国選手権で優勝。カンザス州横断記録を持つグラベル愛好家は、突如として東京五輪代表候補に名が挙がるようになった。
アメリカ代表として参加した2018年のパンナムゲームズでは、当時ジャック・ボブリッジが保持していた記録を破り4分7秒の世界記録を樹立し優勝した。
2008年北京五輪以降インディビデュアル・パーシュート(IP)は五輪種目から外れたため、ランビーはチーム・パーシュートでの出場を目指す。その過程で空力のスペシャリト、ダン・ビグハム(イギリス)のアドバイスを受け空力の改善に成功する。
しかし、アメリカは出場権を得ることができず2019年の秋に彼の五輪出場の夢はついえた。
独自のスタイル
彼の自転車競技に対する取り組みは他の選手とは全く異なる。世界レベルのインディビジュアルパシュート選手の多くはロードのプロチームに所属し、タイムトライアルのスペシャリストとして活躍する。
ランビーは世界屈指の脚力を持つにも関わらずワールド・ツアーに興味はない。トラックとグラベルというまったく関係がないように見える2つの活動と地元ネブラスカでの静かな生活を好む。
ライバルの出現
ランビー最大のライバルはロード・タイムトライアルで無敵の強さを見せるフィリッポ・ガンナ(イネオス・グレナディアーズ)。
2人は2018年以来世界記録を更新しあう好敵手だ。この2人によって2018年以降世界記録は7秒も短縮された。それは時速にして1.7kmの向上だ。
ランビーとガンナの4㎞TTの記録
日付 | ランビーのタイム | ガンナのタイム | AVG km/h |
2018.8.31 | 4:07.251 | 58.240 | |
2019.9.6 | 4:06.407 | 58.440 | |
2019.9.6 | 4:05.423 | 58.674 | |
2019.11.3 | 4:04.252 | 58.956 | |
2019.11.3 | 4:02.647 | 59.346 | |
2020.2.28 | 4:03.640 | 4:01.934 | 59.520 |
2021.8.18 | 3:59.930 | 60.018 |
変わらないアプローチ
本格的にトラック競技に取り組んでから一年半で世界のトップレベルに到達したランビーだが、そのアプローチ方法はグラベル愛好家時代から変わっていない。
トレーニングにはグラベルバイクを使い、走る場所は地元のダートロードだ。
レース前は極限の集中状態に入るトラックレースにおいても独自の方法を採る。ウォーミングアップに使うのは泥がついたグラベルバイク。レース前でもリラックスした様子が特徴的だ。
昨年、ベルリンで行われたトラック世界選手権では、決勝の数時間前にグラベルバイクに乗ってスーパーに買い物に出かけていた。
数時間後にはワールド・ツアーのスーパースターと対決するというのに、レジの行列に並んでいる姿を見たときは筆者も仰天してしまった。思わず声をかけたところ「どうせトラックにいてもゴロゴロしているだけだから」という言葉に二度驚いたのだった。
メキシコ・アグアカリエンテでの記録挑戦
ガンナ vs ランビーの対決はベルリンでの世界選後も続くことが予想され、どちらが先に4分の壁を切るかに注目が集まっていた。しかし、コロナ禍によりベルリン以降のトラック・レースは全て中止に追い込まれた。ライバルのガンナが再開されたワールド・ツアーで大活躍しているのを横目にランビーは一年以上も実戦から遠ざかることになる。
レース出場機会を失った彼は独自のプロジェクトを始める。それが今回のメキシコ・アグリアスカンテスでの世界記録挑戦だ。ガンナがジロを走り、東京五輪でイタリアを金メダルに導いた間、グラベルレースを走り、4分切りの準備を進めていた。
才能に科学が加わる
今回の世界記録挑戦プロジェクトは先の東京五輪でデンマークチームを銀メダルに導いた空力のスペシャリスト、ダン・ビグハム(イギリス)が運営するワットショップが中心となって行われた。ランビーのIPでのパワーは480W +/-。使用するギアは64 x 15Tだという。
彼の体格で4分間480Wを維持するというのは桁違いのパワーだ。世界記録挑戦に向けてさらにパワーを上げるためにウエイト・トレーニングに取り組み、より短く高いパワー領域でのトレーニングに取り組んだという。
パワーアップに取り組む一方で空力改善にも取り組んでいる。前腕にぴったりとフィットしたカーボン製DHバー、空気抵抗の少ないクランク、IPにおいて現在空気抵抗が一番少ないと言われるアルゴン18。これらを使用することで空気抵抗削減を実現した。
スポンサーにとらわれず、自由に機材チョイスができるのは、プロチームに所属しないランビーの特権でもある。
五輪に行けなくても追える夢がある
ランビーは五輪への夢が消えた後はコーチのアドバイスに従い「好きなことをする」選手生活をしばらく送ったという。彼にとってそれはグラベルであり、イギリス横断サイクリングであり、ハードなウエイトトレーニングだった。
多くの自転車競技を志す者にとって目標はツール・ド・フランスだ。それに並ぶのがオリンピック出場。世界を目指す選手は若い間にヨーロッパに渡り夢を追う。
このような従来のアプローチとランビーのそれは全く異なる。若い頃の彼にとってロードレースは好きな自転車の楽しみ方では無かった。バイクショップで働きながらグラベルライドを楽しむのが彼のスタイルであり、その延長線上にあったのがトラックだ。
五輪に出場できなくとも、コロナでレース出場の機会が消えようとも、自身の持つ記録に挑戦することはできる。ランビーの活動から我々が学べることは多いだろう。
中田尚志 ピークス・コーチンググループ・ジャパン
ピークス・コーチング・グループ・ジャパン代表。パワートレーニングを主とした自転車競技専門のコーチ。2014年に渡米しハンター・アレンの元でパワートレーニングを学ぶ。
https://peakscoachinggroup.jp/
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